それから夢と現実と無意識を行ったり来たりしながら私は一人ぼっちの朝をもう一度迎えた。
誰かとつながっているはずの無意識の中の、真っ暗な世界で私は一人泣いていた。
夢の中で私はイズちゃんと初めて出会った高校生だった。
まだコドモだった私達。
同じクラスで私の前の席に座ったイズちゃんが振り返る。
「初めまして。伊豆市から来た伊豆谷蜜希《いずたにみつき》です」
彼女が真顔でいきなりそう言うから私は笑わずにはいられなかった。
その日から私達はずっと一緒にいる。
現実では、やっぱり一人だった。
リビングのソファで目を覚ますと、全身がいつも以上に汗をかいていた。
床に散らばったままのカジュマルと土が、ちゃんと鉢植えに戻されている。
テーブルの上の写真は一枚もなく、コルクボードだけが置いてあった。
「梨世ちゃん。おはよう」
キッチンを見るといつものようにイズちゃんがいた。
「夏休みだからってこんな時間までダラダラしてると太っちゃうよ」
「………イズちゃん、どうして?」
「帰ってこないほうがよかった?」
二人分のサラダをテーブルに置いてイズちゃんは私の隣に座った。
「ううん。———帰ってきてほしかった」
私は首を振って素直に答える。
「だけど、梨世ちゃんを許したわけじゃないよ」
イズちゃんが潤んだ瞳で私を真っ直ぐ見ている。
「———私、梨世ちゃんのこと、許せない」
逃げてはいけないと、目をそらしてはいけないと思った。
「嫌いになった」
これが私の罪と罰なのだから。
「………一回、たたいてもいい?」
私が覚悟を決めてうなずくと、イズちゃんの手がぺちっと優しく私の頬をたたいた。
「私と梨世ちゃんの話はこれで終わり———」
ああ、終わりなんだと思っていた。
「だから、もう一回好きから始める」
イズちゃんは私と向き合うように座り直した。
「初めまして。伊豆市から来た伊豆谷蜜希です」
不意を突かれて一瞬わからなかった。
それでもあの時の、高校生だった頃から変わらないイズちゃんの笑顔がそこにはあった。
「———私、鹿山梨世。私も伊豆から来たの。これから、ずっと………ずっとずっと仲よくしてください」
私は涙でぐちゃぐちゃになっていて、イズちゃんの笑顔がよく見えなかった。

***

海外での仕事、といっても新しいクライアントに挨拶《あいさつ》をするだけであとのことは有能な共同経営者の友人が全てのことは手配してくれる。
デザイナーの僕がすることは、代表としての顔であること、それとデザインと非常勤講師の仕事だけだった。
メインの美術大学のほうは教え方の上手い後輩に代役を頼んだ。
後々、彼に非常勤講師の職ごと譲り渡すためだ。

彼も業界では名が知られ始めているから問題ないだろう。
もう一つの夕星《ゆうせい大学の非常勤講師はまだ新しいデザイン学科のため僕が客寄せパンダになるしかなかった。
こんな僕でも講義を受けたいと思ってくれる生徒がいることはありがたいことだ。
フランスのマルセイユからパリ経由で日本に帰ってくるとそのまま僕は夕星大学に向かった。
今日明日と夏期の特別講義があり、こちらは会社の部下三人に任せてあった。
今回は直前まで教壇に立つ予定だったが共同経営者のゴリ押しのせいで立てなくなってしまった。
それでも今からなら午後の講義には参加できそうだ。
学生に対する申し訳なさもあるが気がかりなことがもう一つあった。
「梨世———」
彼女の存在だ。
昨日のメッセは彼女らしくなかった。
いつもは強がりなメッセージを送ってくるのに、昨日はとても弱々しかった。
「———桂木さん?」
学食で彼女をそう呼んでしまったのは迂闊《うかつ》だった。
「桂木さん!」
何のしがらみもない男女だったら問題なかった。
学生と講師。
年端もいかない娘と既婚者の男。
「………桂木さん」
いきなり飛びついてきた梨世を抱き止めた反動で持っていたトートバッグを落としてしまい、中から妻とコドモに買ってきたおみやげが他の学生の足元まで飛んでいく。
「梨世、ダメだよ。みんな見てるよ」
小声で言うと渋々離れる梨世の視線の先で、おみやげを拾ってくれた学生を見ていた。
「………椋木くん」
「彼が?」
時折、梨世の口からバイト先の男の子の話が出てくる。
「………どうして?」
「栄川ゼミの集まりがあったから」
クラゲが大好きな彼の話をする時の梨世は愚痴《ぐち》を言っているのに楽しそうだった。
今までの男達とは少し違う距離感だった。
「ありがとう。心理学科の椋木くん」
「非常勤の桂木先生、ですよね?」
彼は僕に鋭い視線を向けながら拾い上げたおみやげの袋を渡す。
「鹿山さんと付き合ってるんですか?」
じっと見据えたまま、動かなかった。
「椋木くん、やめて」
梨世がそっと間に入る。
それでも彼は僕から目をそらさなかった。
「椋木くん。外で話そうか?」
昼時の学食では野次馬が周りを囲んでいた。
「わかりました」
「私も!」
「鹿山さんは友達といなさい」
振り返って僕を見た梨世は唇《くちびる》を噛んで言いたい何かを我慢していた。
そんな彼女を残して僕らは学食の外に出る。
夏の日差しを避けるように僕らは歩く。
「ズルいですよ」
先に口を開いたのは彼だった。
僕は立ち止まり、先に歩みをやめた彼に振り返る。
「君は鹿山さんのことが好きなのかい?」
「アナタこそ、鹿山さんのこと、どう考えているんですか?」
静かな怒りが目に込められていた。
「あの子が幸せであることを祈っているだけだよ」
「あの子の幸せって何ですか? 桂木先生は結婚していて、お子さんもいるんですよね?」
少し驚いた。
梨世が彼に僕のことを話したのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
彼女が真実を語るのは僕だけのはずだから。
ああ、そうか。指輪とおみやげか。
「君はなかなか鋭いね」
そう言って笑顔を見せても彼はじっと僕をにらんでいた。
「はぐらかさないでください」
僕と彼の間にいる梨世の存在は、どんな距離でそこに存在しているんだろう。
「今のままなら鹿山さんはアナタに捨てられてからも同じような恋愛しかできないですよ」
彼との距離を保ちながら、
「きっとそれは恋愛ですらない。ただ、妻子持ちのオトコにいいように利用されるだけ」
僕との距離も遠くならずに存在する。
「いつかあの子が一番だと思えるオトコが現れるまでの埋め合わせだよ」
けれど、いつか僕から離れていく。
それを僕は望んでいるんだろうか。
「本気で彼女のこと考えているんですか? 都合よく自分の手元に置いておきたいだけなんじゃないんですか?」
波風立てずにそっとしておいてくれればよかった。
「そんなことはないよ」
「それでも彼女の幸せを考えているんですか?」
「彼女が一番幸せである結末を思ってるよ」
「だったら今すぐ離婚してください。それができないなら、ただの逃げですよ。奥さんからもお子さんからも」
感情的になって何を言い出すかと思えば。
「僕が離婚してあの子と結婚すれば君は満足するのかい?」
そう言うと、彼は押し黙る。
「結婚さえすれば、幸せになれると本気で思っているのかい?」
そこにあるのは理想ではなく、現実だった。
「君こそ理想ばかりを追いかけていないで、ちゃんと彼女と向き合ったらどうなんだ?」
現実は否応なく僕に理不尽を突き付ける。
いや、理不尽なのは僕のほうか。
「僕はちゃんと、梨世と向き合っているよ」
彼女と迎える終わりのいつかのために。

***