インターホンの音がする。
と私が目を覚ましたのは西日が差し込む時間だった。
全身がダルくて重くて少しフラつきながらインターホンの画面を見ると、椋木くんが映っていた。
「………椋木くん?」
「鹿山さん、大丈夫?」
「どうして?」
「カニクリが教えてくれた。鹿山さんが大変だって」
「だって、バイトは?」
「ミオ先輩に頼んできた」
「………そっか。ごめん」
「それであの、開けてくれない?」
「あ、ごめん」
開錠のボタンを押してから数分、私はカニクリのお節介に少しだけ感謝した。
そして同時に少しだけ恨んだ。
涙でぐしょぐしょの顔を洗い、手ぐしで髪を整えて、
「何やってんだろ。私」
誰かに会うのにこんな顔じゃ、ね。
と理由をつけて玄関のドアを開けた。
「あ、………こんにちは」
すっぴんで彼に会うのは二回目だった。
「———とりあえず、入って」
スリッパを出して私は彼を招き入れた。
「けっこう広いね」
すれ違うとちょっとだけ彼の汗の匂いがする。
「二人暮らしだもん。アイスコーヒーでいい?」
「うん。ありがとう。あ………」
彼が散らかった床を見て言葉を詰まらせた。
「え? あ、………それは気にしないで。あとで片付けるから。ソファに座ってて」
まだ少しだけフラつくけど思ったよりすっきりしていた。
「………何か、ごめんね」
「何があったの?」
私はキッチンで氷の入れたグラスに作り置きのコーヒーをそそいだ。
「———カニクリは何も言ってない?」
「うん。あ、またフラレた?」
「また、は余計です」
どこかぎこちないと自分で思う笑顔で私はグラスを彼に差し出した。
「でも半分正解。イズちゃんに、フラレた」
「ケンカした?」
私は夕日がまぶしくてカーテンを閉めてから、彼と向き合わないようにテーブルの斜め前の床に座った。
「ううん。ちょっとね」
言えない。
私が何をしたかなんて、彼には言えない。
「それで、あれ?」
彼の視線の先、私が見ないように背中を向けた床に広がる土とコルクボード。
「………うん。私、今は普通にしゃべれてるのが不思議なくらい情緒不安定なんだ」
コーヒーを一口飲むと、冷たくて苦い液体が体の中を通っていくのがわかる。
朝から何も入っていない胃の中で冷たさを失っていく。
「椋木くん、コーヒー苦手?」
彼は私を見つめたままでコーヒーはテーブルの上で汗をかいたままだった。
「甘いほうがいいかな。ガムシロップある?」
「あるよ。ちょっと待ってて」
「いいよ。自分でやるから」
「わかった。そっちの上の棚の中だよ」
「ああ、あった」
彼は何を考えているんだろうか。
かわいそうな女の子を慰めに来てくれた?
それとも哀れな私を笑いに来たんだろうか。
彼が何を思っているか少しだけ知りたくなった。
「椋木くんって、ブラック飲めないの?」
「飲めないこともないけど、ちょっと甘くしたいかな。でもミルクはなしで」
戻ってきた彼は照れた笑いを見せながら再び座った。
「もしかして牛乳嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、何が好き? あ、前にサーモン好きって言ってたような気がする」
「うん、好きだよ。鹿山さんもでしょ?」
「うん。好き。あれ美味しかったよね。他は?」
「他? 肉とか?」
「意外と肉食? 草食だと思った」
「この前、バーベキュー行ったじゃん。肉食べてたよ」
「あ、そっか」
「興味なさすぎ」
「そんなことないよ」
好きなヒトの好きなモノが知りたくなるって言うなら、
「今は、ちょっと興味あるかな」
私は間違いなく、彼のことが好きなんだと思う。
今まではそんなことなかった。
ただ私の心を満たしてくれさえすればよかった。
私を好きじゃなくても、私がさみしくなければそれでよかった。
「椋木くんさ、浮気、したことある?」
「ないよ。されたことはあるけど」
「あ。………ごめん。忘れてた」
だけど、彼は違う。
彼のそばにはシズクがいる。
浮気して戻ってきたシズク。
きっと今日だってシズクが彼のお家で待っているんだろう。
彼を好きになってはいけない。
そんな思いが湧《わ》いてくる。
こんな私が彼を好きになってはいけないんだ。
「その話がしたかったんじゃなくて、どうしてオトコのヒトは浮気しちゃうのかなって」
だったらどんなオトコが私を好きになってくれるんだろう。
妻子持ちのオトコ?
カノジョ持ちのオトコ?
親友のカレシ?
「どうなんだろうね。僕にはちょっとわからないかな。カノジョだけでも精いっぱいなのに」
「………そうだよね。シズクがいるもんね」
彼が私を見つめている。
私の心を見透かすその瞳から逃れたくて私はまたコーヒーを口に含む。
「———私、一人になっちゃった」
イズちゃんは許してくれるだろうか。
「イズちゃんはきっと許してくれない」
「ちゃんと話し合ったら許してくれるよ」
「………椋木くんは、シズクのことを許したの?」
その問いかけに彼は答えなかった。
不意に立ち上がると私の背後に行き、散らばった写真を拾い始める。
「何があったかは知らないけどさ、友達なんだろ?」
彼が土を払ってテーブルに並べた写真は過去だ。
それなのに、私は変わっていない。
外見ばかりが派手になって、中身は相変わらず誰かの一番にはなれない私のままだ。
「友達だから、だよ………」
どうして私だけを好きでいてくれないんだろう。
私一人だけを愛してくれるヒトはどこにいるんだろう。
「………友達を裏切った私はどうすればいいのかな?」
嘘ばかりの恋で心を満たしても、心はすぐに空っぽになってしまう。
「———椋木くん。どうすれば、さみしくなくなるのかな………?」
テーブルの写真が笑っている。
脆《もろ》く崩れ去った友情を、浅はかな私を、あざ笑っている。
オマエはこのまま一生誰からも愛されることなく、一人で生きて一人で死んでゆくんだ。
これからずっとオマエは———
「ほら、これでもう———さみしくない」
思っていたよりも大きな手が私を後ろからそっと包み込む。
細いのに筋肉質な腕に私は手を添える。
「………椋木くん」
記憶の最果てで高校生の私が目を覚ます。
あの時も、私は彼にそう言われて後ろから抱きしめられた。
「———ごめん」
思い出される記憶と込み上げる感情が私の涙を誘う。
「………やっぱり椋木くんじゃ、ダメだ」
その涙が、彼の腕にこぼれ落ちた。
彼の優しさを感じるたびにその先にいる存在を意識してしまう。
彼の幸せを、壊したくない。
今まで、そんなことを思ったこともなかった。
ただ私がさみしくなければよかった。
「———私ね、イズちゃんのカレシとセックスしたの」
私の頭に触れる彼の胸が呼吸を一瞬止まらせる。
「だから、軽蔑して———」
私は汚い。
ズルい手を使って、親友のカレシを奪おうとした。
こんなにもケガレた私は彼に優しくされる価値もない。
「………椋木くん」
ぽろぽろと涙を流す私に彼は何も言わなかった。
「———お願い。私を嫌いになって………?」
何も言わないで私を強く、より強く抱きしめた。
耳元で聞こえる彼の息遣いと私のリズムが重なる。
「………シズクが、待ってるでしょ?」
これ以上、彼を思ってはいけない。
彼に甘えてはいけない。
「———そう、だね………」
彼は静かに手をほどく。
彼の温もりがゆっくりと失われていく。
「今日は、ありがとう。もう———大丈夫だから」
私は振り向いて彼を見つめる。
「うん。わかった」
彼に触れたいと、彼にキスをしたいと思う衝動に、私はそっと蓋《ふた》をした。
***
夜空が白み始めた頃、
「カニクリちゃん、起こしちゃった?」
目を覚ましたカニクリちゃんが荷物をまとめている私をベッドから見ていた。
「………おはよう。もう行くの?」
「うん。梨世ちゃん、きっと泣いてるから」
「許してあげるの?」
「わかんない。………どうすればいいのかな?」
「イズちゃんのしたいようにすればいいよ。何だったら殴ってあげたら?」
ベッドに入ったままカニクリちゃんは笑った。
「そんなことしないよ。私は梨世ちゃんを傷付けたくないから」
「傷付けられても?」
「うん。———私だけが梨世ちゃんの、親友だから」
「そうだね。そうしてあげて」
私と梨世ちゃんが初めて会ったのは高校の入学式だった。
あの頃から梨世ちゃんは特別で、目立っていた。
長く艶《つや》やかな黒い髪は真っ直ぐ伸びていて、その黒髪に映える白い肌は透き通っていた。
少しだけ紅潮した頬と全てのヒトを魅了してしまう明るく茶色い虹彩の瞳が、近寄りがたさを演出していた。
他のヒトにはそれが美人に見えたかもしれない。
けれど私には、さみしさの塊にしか見えなかった。
高校生になったばかりの梨世ちゃんはとても無愛想で、チャラそうな男子が話しかけてもちっとも笑わなかった。
それどころかますます機嫌が悪くなる。
そんな腫《は》れ物みたいな彼女から、初日にも関わらずみんなは距離を取っていた。
私にはそれが許せなかった。
彼女から距離を取った先に私自身がいたことに。
そして、中学で私も同じように距離を置かれていたことに。
小学五年から大きくなった胸と少しぽっちゃりな体型のせいでイジメられ、中学では男子にからかわれるのと同じくらいアピールもあって私は影で「ヤリマン」なんて言われていた。
彼女は、私だった。
そしてそんな彼女を揶揄《やゆ》しているのも、私だった。
ほんとうに許せないのは自分自身だ。
彼女をさみしそうと思った自分だ。
彼女のさみしさを理解できると思っていた私の傲《おご》りだ。
それは今も変わらない。
それでも、私は彼女の親友でありたい。
彼女の笑顔を見ていたい。
「カニクリちゃん。私ね、梨世ちゃんのさみしいを利用したんだと思う」
ああ、私も嘘つきだ。
「私のさみしいを誤魔化すために、梨世ちゃんを利用した」
梨世ちゃんを許してあげられない。
カレシを許せない。
「きっと、これからも利用すると思う」
「———それでいいんじゃない?」
カニクリちゃんはゆっくりとベッドから起き上がると大きく伸びをした。
「私だってイズちゃんだって、利用して利用されてる。そういう言い方はよくないけど、みんなそうやって生きてくんじゃない?」
カニクリちゃんがぎゅっと私を抱きしめた。
「さみしいから一緒にいて、楽しいから一緒にいる。依存かもしれない。だけど、それも共生。共に生きていくってことでしょ?」
梨世ちゃんも嘘つきだ。
私を親友だなんて言っておいて、カレシになったのを知っていながらセックスするなんて。
「………カニクリちゃん。私、やっぱり梨世ちゃんのこと許せない」
「うんうん。許せなくて当然だよ」
こんなことを思うのは初めてだった。
悔しい。
「———どうしよう。私、梨世ちゃんのこと嫌いになっちゃう………」
悔しくて、私は泣いた。
カニクリちゃんの耳元で、きっとうるさかったと思う。
それくらい、いっぱい泣いた。
「それだったら、いっそ思いっきり嫌いになって、また好きになればいいんだよ」
私は何度もうなずいた。
「だって、大好きなんでしょ?」
素敵なその提案に、何度も何度もうなずくので精いっぱいだった。
***
と私が目を覚ましたのは西日が差し込む時間だった。
全身がダルくて重くて少しフラつきながらインターホンの画面を見ると、椋木くんが映っていた。
「………椋木くん?」
「鹿山さん、大丈夫?」
「どうして?」
「カニクリが教えてくれた。鹿山さんが大変だって」
「だって、バイトは?」
「ミオ先輩に頼んできた」
「………そっか。ごめん」
「それであの、開けてくれない?」
「あ、ごめん」
開錠のボタンを押してから数分、私はカニクリのお節介に少しだけ感謝した。
そして同時に少しだけ恨んだ。
涙でぐしょぐしょの顔を洗い、手ぐしで髪を整えて、
「何やってんだろ。私」
誰かに会うのにこんな顔じゃ、ね。
と理由をつけて玄関のドアを開けた。
「あ、………こんにちは」
すっぴんで彼に会うのは二回目だった。
「———とりあえず、入って」
スリッパを出して私は彼を招き入れた。
「けっこう広いね」
すれ違うとちょっとだけ彼の汗の匂いがする。
「二人暮らしだもん。アイスコーヒーでいい?」
「うん。ありがとう。あ………」
彼が散らかった床を見て言葉を詰まらせた。
「え? あ、………それは気にしないで。あとで片付けるから。ソファに座ってて」
まだ少しだけフラつくけど思ったよりすっきりしていた。
「………何か、ごめんね」
「何があったの?」
私はキッチンで氷の入れたグラスに作り置きのコーヒーをそそいだ。
「———カニクリは何も言ってない?」
「うん。あ、またフラレた?」
「また、は余計です」
どこかぎこちないと自分で思う笑顔で私はグラスを彼に差し出した。
「でも半分正解。イズちゃんに、フラレた」
「ケンカした?」
私は夕日がまぶしくてカーテンを閉めてから、彼と向き合わないようにテーブルの斜め前の床に座った。
「ううん。ちょっとね」
言えない。
私が何をしたかなんて、彼には言えない。
「それで、あれ?」
彼の視線の先、私が見ないように背中を向けた床に広がる土とコルクボード。
「………うん。私、今は普通にしゃべれてるのが不思議なくらい情緒不安定なんだ」
コーヒーを一口飲むと、冷たくて苦い液体が体の中を通っていくのがわかる。
朝から何も入っていない胃の中で冷たさを失っていく。
「椋木くん、コーヒー苦手?」
彼は私を見つめたままでコーヒーはテーブルの上で汗をかいたままだった。
「甘いほうがいいかな。ガムシロップある?」
「あるよ。ちょっと待ってて」
「いいよ。自分でやるから」
「わかった。そっちの上の棚の中だよ」
「ああ、あった」
彼は何を考えているんだろうか。
かわいそうな女の子を慰めに来てくれた?
それとも哀れな私を笑いに来たんだろうか。
彼が何を思っているか少しだけ知りたくなった。
「椋木くんって、ブラック飲めないの?」
「飲めないこともないけど、ちょっと甘くしたいかな。でもミルクはなしで」
戻ってきた彼は照れた笑いを見せながら再び座った。
「もしかして牛乳嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、何が好き? あ、前にサーモン好きって言ってたような気がする」
「うん、好きだよ。鹿山さんもでしょ?」
「うん。好き。あれ美味しかったよね。他は?」
「他? 肉とか?」
「意外と肉食? 草食だと思った」
「この前、バーベキュー行ったじゃん。肉食べてたよ」
「あ、そっか」
「興味なさすぎ」
「そんなことないよ」
好きなヒトの好きなモノが知りたくなるって言うなら、
「今は、ちょっと興味あるかな」
私は間違いなく、彼のことが好きなんだと思う。
今まではそんなことなかった。
ただ私の心を満たしてくれさえすればよかった。
私を好きじゃなくても、私がさみしくなければそれでよかった。
「椋木くんさ、浮気、したことある?」
「ないよ。されたことはあるけど」
「あ。………ごめん。忘れてた」
だけど、彼は違う。
彼のそばにはシズクがいる。
浮気して戻ってきたシズク。
きっと今日だってシズクが彼のお家で待っているんだろう。
彼を好きになってはいけない。
そんな思いが湧《わ》いてくる。
こんな私が彼を好きになってはいけないんだ。
「その話がしたかったんじゃなくて、どうしてオトコのヒトは浮気しちゃうのかなって」
だったらどんなオトコが私を好きになってくれるんだろう。
妻子持ちのオトコ?
カノジョ持ちのオトコ?
親友のカレシ?
「どうなんだろうね。僕にはちょっとわからないかな。カノジョだけでも精いっぱいなのに」
「………そうだよね。シズクがいるもんね」
彼が私を見つめている。
私の心を見透かすその瞳から逃れたくて私はまたコーヒーを口に含む。
「———私、一人になっちゃった」
イズちゃんは許してくれるだろうか。
「イズちゃんはきっと許してくれない」
「ちゃんと話し合ったら許してくれるよ」
「………椋木くんは、シズクのことを許したの?」
その問いかけに彼は答えなかった。
不意に立ち上がると私の背後に行き、散らばった写真を拾い始める。
「何があったかは知らないけどさ、友達なんだろ?」
彼が土を払ってテーブルに並べた写真は過去だ。
それなのに、私は変わっていない。
外見ばかりが派手になって、中身は相変わらず誰かの一番にはなれない私のままだ。
「友達だから、だよ………」
どうして私だけを好きでいてくれないんだろう。
私一人だけを愛してくれるヒトはどこにいるんだろう。
「………友達を裏切った私はどうすればいいのかな?」
嘘ばかりの恋で心を満たしても、心はすぐに空っぽになってしまう。
「———椋木くん。どうすれば、さみしくなくなるのかな………?」
テーブルの写真が笑っている。
脆《もろ》く崩れ去った友情を、浅はかな私を、あざ笑っている。
オマエはこのまま一生誰からも愛されることなく、一人で生きて一人で死んでゆくんだ。
これからずっとオマエは———
「ほら、これでもう———さみしくない」
思っていたよりも大きな手が私を後ろからそっと包み込む。
細いのに筋肉質な腕に私は手を添える。
「………椋木くん」
記憶の最果てで高校生の私が目を覚ます。
あの時も、私は彼にそう言われて後ろから抱きしめられた。
「———ごめん」
思い出される記憶と込み上げる感情が私の涙を誘う。
「………やっぱり椋木くんじゃ、ダメだ」
その涙が、彼の腕にこぼれ落ちた。
彼の優しさを感じるたびにその先にいる存在を意識してしまう。
彼の幸せを、壊したくない。
今まで、そんなことを思ったこともなかった。
ただ私がさみしくなければよかった。
「———私ね、イズちゃんのカレシとセックスしたの」
私の頭に触れる彼の胸が呼吸を一瞬止まらせる。
「だから、軽蔑して———」
私は汚い。
ズルい手を使って、親友のカレシを奪おうとした。
こんなにもケガレた私は彼に優しくされる価値もない。
「………椋木くん」
ぽろぽろと涙を流す私に彼は何も言わなかった。
「———お願い。私を嫌いになって………?」
何も言わないで私を強く、より強く抱きしめた。
耳元で聞こえる彼の息遣いと私のリズムが重なる。
「………シズクが、待ってるでしょ?」
これ以上、彼を思ってはいけない。
彼に甘えてはいけない。
「———そう、だね………」
彼は静かに手をほどく。
彼の温もりがゆっくりと失われていく。
「今日は、ありがとう。もう———大丈夫だから」
私は振り向いて彼を見つめる。
「うん。わかった」
彼に触れたいと、彼にキスをしたいと思う衝動に、私はそっと蓋《ふた》をした。
***
夜空が白み始めた頃、
「カニクリちゃん、起こしちゃった?」
目を覚ましたカニクリちゃんが荷物をまとめている私をベッドから見ていた。
「………おはよう。もう行くの?」
「うん。梨世ちゃん、きっと泣いてるから」
「許してあげるの?」
「わかんない。………どうすればいいのかな?」
「イズちゃんのしたいようにすればいいよ。何だったら殴ってあげたら?」
ベッドに入ったままカニクリちゃんは笑った。
「そんなことしないよ。私は梨世ちゃんを傷付けたくないから」
「傷付けられても?」
「うん。———私だけが梨世ちゃんの、親友だから」
「そうだね。そうしてあげて」
私と梨世ちゃんが初めて会ったのは高校の入学式だった。
あの頃から梨世ちゃんは特別で、目立っていた。
長く艶《つや》やかな黒い髪は真っ直ぐ伸びていて、その黒髪に映える白い肌は透き通っていた。
少しだけ紅潮した頬と全てのヒトを魅了してしまう明るく茶色い虹彩の瞳が、近寄りがたさを演出していた。
他のヒトにはそれが美人に見えたかもしれない。
けれど私には、さみしさの塊にしか見えなかった。
高校生になったばかりの梨世ちゃんはとても無愛想で、チャラそうな男子が話しかけてもちっとも笑わなかった。
それどころかますます機嫌が悪くなる。
そんな腫《は》れ物みたいな彼女から、初日にも関わらずみんなは距離を取っていた。
私にはそれが許せなかった。
彼女から距離を取った先に私自身がいたことに。
そして、中学で私も同じように距離を置かれていたことに。
小学五年から大きくなった胸と少しぽっちゃりな体型のせいでイジメられ、中学では男子にからかわれるのと同じくらいアピールもあって私は影で「ヤリマン」なんて言われていた。
彼女は、私だった。
そしてそんな彼女を揶揄《やゆ》しているのも、私だった。
ほんとうに許せないのは自分自身だ。
彼女をさみしそうと思った自分だ。
彼女のさみしさを理解できると思っていた私の傲《おご》りだ。
それは今も変わらない。
それでも、私は彼女の親友でありたい。
彼女の笑顔を見ていたい。
「カニクリちゃん。私ね、梨世ちゃんのさみしいを利用したんだと思う」
ああ、私も嘘つきだ。
「私のさみしいを誤魔化すために、梨世ちゃんを利用した」
梨世ちゃんを許してあげられない。
カレシを許せない。
「きっと、これからも利用すると思う」
「———それでいいんじゃない?」
カニクリちゃんはゆっくりとベッドから起き上がると大きく伸びをした。
「私だってイズちゃんだって、利用して利用されてる。そういう言い方はよくないけど、みんなそうやって生きてくんじゃない?」
カニクリちゃんがぎゅっと私を抱きしめた。
「さみしいから一緒にいて、楽しいから一緒にいる。依存かもしれない。だけど、それも共生。共に生きていくってことでしょ?」
梨世ちゃんも嘘つきだ。
私を親友だなんて言っておいて、カレシになったのを知っていながらセックスするなんて。
「………カニクリちゃん。私、やっぱり梨世ちゃんのこと許せない」
「うんうん。許せなくて当然だよ」
こんなことを思うのは初めてだった。
悔しい。
「———どうしよう。私、梨世ちゃんのこと嫌いになっちゃう………」
悔しくて、私は泣いた。
カニクリちゃんの耳元で、きっとうるさかったと思う。
それくらい、いっぱい泣いた。
「それだったら、いっそ思いっきり嫌いになって、また好きになればいいんだよ」
私は何度もうなずいた。
「だって、大好きなんでしょ?」
素敵なその提案に、何度も何度もうなずくので精いっぱいだった。
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