「優馬、ねえ優馬ー!」

 池を双眼鏡越しにのぞいていた夏服姿の優馬は、聞きなれない位置からの声にはっと顔を上げ辺りを見回した。が、すぐ近くにいるはずの姿が見つからない。

「こっちこっちー」

 後ろへ捻った首をさらに上の方へと向け直す。一体どうやって登ったのか、大きく張り出した木の枝に腰かけた制服姿の七瀬がようやく視界に入ってくる。

「やーっと気付いた」

「見つけられなかっただけだって」

「それを気づかないって言うの! 私がどこにいるのか、分かってなかったじゃない」

「で、そんなとこでなにしてるの」

 質問には答えず、無理矢理話題の矛先をずらす。このままうかつに続けると、多分面倒なことになる。優馬の鋭いとは言い難いレーダーが辛うじてそう訴える。

「何って、高いとこから見た方がよく見えるんじゃないかなーって」

 ただ登っただけでは物足りないとでもいうように、七瀬は両足を交互に揺らしている。

「いいから降りてきてよ」

「何で? 大したことないって、子どもじゃないんだからさー」

 ──そうじゃないんだって。いや、そういうことなんだけど。
 
 ひどく気まずいものを感じながら、優馬は弾かれたように顔を逸らす。
 
 七瀬が足を揺らすのに伴って、スカートの裾がひらひらと舞っている。おかげでふんわり膨らんだ裾の奥がかなり危ういのに、当の本人は全く気付く気配がない。

 つまりあのまま見上げていたら、ホントに見えてしまうわけで。こうも無防備に晒されてしまうのは、何だかとても気まずいわけで。

「あ、危ないだろ!」

「へーへー」

 優馬の真意を知ってか知らずか、七瀬は降りようとはしない。

「それに神社なんだからさ。罰当たりなことしないでくれよ」

「へーへー」

 が、七瀬は相変わらず水面を眺めている。

 七瀬はオカ研にやってきてからというものずっとこの調子で、優馬はすっかりペースを乱されてしまっている。七瀬は龍神の調査をするにあたり、主だった方針をほとんど全て自分だけで決めてしまっていた。

 優馬はと言えば、七瀬の指示の下にひたすらひいこら走り回る羽目になっている。

 優馬が少しでも不満をこぼそうものなら、「あんた部長でしょー。オカ研二十五年の伝統がなくなってもいいわけ?」と殆ど脅しに近い言葉を浴びせられ、もはや退路すら奪われていると言っていい。

 ──何だかなぁ。

 やるせない気持ちに浸りながら見上げる空は、優馬の心にシンクロするかのようにどんより濁った鼠色。それでも手抜きせずにやろうとしてしまうのは、果たしてどんな理由からなのか。我がことながら余りの辻褄の合わなさに辟易としつつ、優馬は一向に現れそうにない龍神の姿を探し続けている。

「優馬ってさ、もしかして今、焦ってたりする?」

「当たり前だよ。龍神を見つけられなかったらオカ研は廃部だし、大体七瀬は学校を辞めさせられる上に町からも出て行かないといけないんだろ? 焦らない方がおかしいよ」

 七瀬を見上げようとして見上げられず、代わりに切迫感だけは精いっぱい詰め込んで。

「そうかな?」

 が、優馬の悲愴感漂う訴えを、七瀬は何でもないことのように軽くいなしてしまう。

「優馬はさ、このあいだ言ってたよね、龍神がいるとは思ってないって」

「普通に考えれば、まあそうでしょ」

「今でもそう思ってる?」

「そうだね」

 少し考える素振りを見せてから、優馬はうなずきつつ慎重に答えた。

「そっか」

 が、七瀬はそれをなじることもせず、あっさりと引きさがった。優馬はちょっと意外に感じながらも、次の言葉をじっと待つ。

「それでもやっぱりいるんだよ、龍神は、さ」

「けど出てこないじゃないか。もう一週間も放課後から日が暮れるまでこうして見張ってるのに。それに、神社の人たちに聞いても有益な情報なんて出てこなかったわけだし」

「私思うんだけど」

 そう前置きして、七瀬はゆっくりと話し始める。

「多分。多分だけどね、まだその時じゃないんだと思う。龍神だって神様なわけじゃない? だから、ほら、あんまりあっさり出てきちゃったら、有難味がないっていうか」

「そういう問題なの?」

 予想外というか、予想通りというか、七瀬の根拠不明な回答に思わず声が大きくなる。

「うん。だからね、実は私、全然焦ってないんだよね。それに、優馬だって文句言いながらだけど一生懸命やってくれてるし。こういうとこ、絶対見てくれてると思うんだよね。神様って、そういうものじゃない?」

「まあ、そうかもしれないけど」

 ──そもそも神様がいなかったら意味ないじゃないか。
 
 とは、言わないでおいた。七瀬の口から飛び出た言葉のむず痒さに毒気を抜かれていた。
 
 それに、口に出して言ってしまったら七瀬の中にある大事な部分にまで傷をつけてしまいそうで。

 そんな、らしからぬ感傷を抱きながら優馬は手に握っていた双眼鏡を覗き込んだ。けれども、見ようとしていた水際からは狙いが逸れ、優馬は双眼鏡を覗いたまま視野を漂わせた。そうしているうちに、遊歩道からさらに奥まったところにある藪の暗がりが丸い視界に映り込んだ。

「ん? 何だあれ」

 優馬は双眼鏡を下ろし、自分が今しがた見ていた辺りを見渡す。

「何? 龍神?」

「いや、そうじゃなくて」

 優馬は苦笑しつつ双眼鏡を渡すと、自身が今しがた見ていた場所を指さした。

「ほら、あそこの藪を見て欲しいんだ」

「別に何にも……あ」

「道っぽいものがあるよね」

「うん」

 七瀬はさらによく見ようと、見る角度を様々に変えながら双眼鏡を覗きこんでいる。
 遊歩道の周りだけは下草がきれいに刈られ、視界が開けている。

 一方で、そこから先は深い藪と高い木々に阻まれている。そんな中、藪の中に一本の小路がぽっかりと口を開け、森の奥へと続いている。分厚い落ち葉に覆われた道は入ってすぐのところでカーブを描き、先を見通すことは叶わない。

「遊歩道ではないみたいだね。案内図にも載ってないし」

 優馬は再びパンフレットを掲げる。自分たちのいる遊歩道は池の水際沿いにぐるりと一周しているものの、それる方向の道は一つもない。

 優馬はどうしたものか考えあぐねた。あまりいい予感はしない。

「ねぇ、これ行ってみない?」

 そう言った時には、七瀬は遊歩道から一歩を踏み出していた。

 優馬は、さくさくと先を進んでいく七瀬の背中を見つつ一瞬だけ頭を巡らせる。
不調続きの調査。

 自信満々な七瀬。

 廃部寸前の部活。

 そんなものを思い描いて……「あわわ、ちょっと待って」いるうちに数メートルほど先まで進んでしまっていた七瀬を慌てて追いかけた。


「えーと、ここはどこだろう?」

 数分後、藪の中を通りぬけた優馬たちは再び開けた空間へと躍り出た。学校の教室くらいある原っぱに出た二人は、そうすることが求められているかのように、辺りをきょろきょろと見回した。

 優馬は再び鼻にティッシュを詰め込んでいた。ここへ来る途中、出血したのを例のごとく止血したのだ。

「奥に何かあるよ!」

 優馬の反応を待つまでもなく、七瀬は小走りで駆け出した。

「あ、危ないって」

 そんな七瀬の後を優馬はとぼとぼと付いていく。

「こういうの、何て言うんだっけ」

「祠、かなあ」

 立ち止まった七瀬のすぐ目の前、原っぱの隅には祠らしきものがあった。祠、と言っても屋根材は殆どが抜け落ち、柱材も全て倒れてしまっている。傷み具合があまりにひどく、かつて何かが祀られていたことを思わせる面影は感じられない。祠は、荒れ果てた姿によって人々の記憶から忘れられていることを静かに物語っていた。

 祠の奥には洞窟が続いていた。七瀬のいる場所から十メートルほども離れると、ほとんど光は届かない。あとはただ、時間が歩みを止めてしまったかのような暗闇があるばかりである。

 ここは何なのだろうと思っている優馬の頬を、生ぬるい風がひゅうと撫でた。
 
 たったそれだけのことで、優馬の全身に怖気が走っていた。

 勢いよく周囲を見渡すも、何も見えず聞こえない。だが、優馬は生きた心地すらなくなっていく気がした。はっきりとは分からない。だが、よくない感じがするのは確かだった。

「そうそう祠よ、祠」

 祠から視線を上げ、七瀬は優馬へ振り向いた。
「どうしたの?」

 七瀬は眉をひそめた。優馬は、藪の出口から離れないまま動こうとしない。

「どうしたのって、そりゃあ」

「あぁ、怖いのね」

 あっさり図星を指されたが、今は怒るどころではなかった。

「よくないよ、ここ」

 優馬は伏し目がちに辺りを見回した。いつ何が出てくるだろうか、と気が気でない。

「早く戻ろうよ」

「何で? 別に何も出てこないじゃない」

「だけど」

 優馬は答えに窮した。

 優馬自身、特段知識があるわけではない。霊感があるわけでもない。
 
 ただ、奥深い洞窟の手前に祠があると言うこと自体が恐ろしかった。祠から先が絶対に踏み込んではいけない場所だということだけは、何となくの察しがついた。
 
 ふと気づくと、蝉の鳴き声が完全に止んでいた。遊歩道にいた時はやかましいほどだったのが、今はただの一匹も鳴いていない。他の虫や鳥の鳴き声もなく、辺りはしんと静まり返っている。
 
 いつからだろうか。

 どこからだろうか。

 優馬は考える。藪の道に入る前からなのか、ここへ来る途中のことなのか、それともつい今しがたのことなのか。

 いずれにしろ、この空間は何かがおかしい。そう思わずにはいられない。

「早く戻ろう。ヤバいよここ」

 優馬の声は震え始めていた。

「みたいだね」

 簡潔に答えた七瀬は、なおも辺りを見回している。

「戻ろっか」

 そう呟いた七瀬は、後ろへ振り向くこともできずその場へうずくまった。優馬も同じだった。洞窟の奥から突然すさまじいほどの光が溢れ、声を上げることすらできないでいる二人を光の洪水が飲み込んだ

 一体何が起こったのか。ほんの一瞬前までほら穴だった場所は、今や光によって全てを白く塗りつぶされていた。眩しすぎる光に包まれるのは、暗闇の中にいるのと同じだった。どうにかして動こうにも、視界どころか平衡感覚まで奪われ身動きが取れない。

 二人とも、自分がどうにかなってしまうんじゃないかというくらいの恐怖の中どうすることもできないでいた。