「って、ちょっと! いつまで手、握ってるのよ! さっさと離しなさいよ!」

「え? ままま、待って」

 優馬がろくに反応できないでいるうちに、派手な破裂音が辺りに響いた。

「まったく、すぐ調子に乗るんだから」

 七瀬はすっかり機嫌を損ねてしまったらしく、優馬に背を向けてしまった。七瀬の後ろ姿を尻目に、優馬はじんじんと痛む頬を撫でた。叩かれた部分が段になっているのが、触れる指先の感覚で分かる。赤く腫れ上がって手形になっているであろうことは、想像に難くない。

 ──まあ、いいか。

 今回に限ったことではない。もう何度こんな目に遭っていることか。

 なのになぜこうも簡単に許せてしまうのか。本当は自分はお人よしでもなんでもなくて、ひょっとしたら相当な変態なのではなかろうか。叩かれることや罵られることが歓び、とかそういう趣味の。

 などと考えているところに、優馬は不意に腑に落ちるものを感じた。すとん、と音がしそうな勢いで納得した。

 ──ああ、そういうことか。

 優馬は、これまで積もりに積もった疑問を追い出すように長く息を吐き出した。

 身にそぐわない贅沢だ、と自分でも思う。相手は、少なくとも黙っていれば超絶美人の七瀬なのだから。ヘタレと呼ばれる自分には、随分と不似合いであり不釣合いだ、とも思う。だとしても、自分の思いに対する迷いは一切なかった。むしろ、今の自分を褒めてやりたいような胸を張りたいくらいの気持ちでいた。

「で、改めてここはどこなんだろう」

 真っ暗なところから間一髪出られたと思ったら、今度はやけに明るい場所に出た。しかも単純に明るいのではない。何やら至るところから光が発していて、全体的に眩しい。

 少なくとも、太陽に照らされている感覚ではなかった。かといって、電気的な照明や炎の明るさともまた違っている。周囲の空間から自然に光が発しているような、不思議な光景だった。

 優馬たちがいる場所も例外ではなく、二人は穏やかな光に包まれていた。温かみのある光によって形作られた何かが、川のように蛇行しながら前後なく延々と続いている。二人はこの上に乗せられたまま、確実に前へと運ばれていた。

 一体どこへ行きつくのか。

「もしかして、死んじゃったのかな。私たち」

 呟きながら視線をさまよわせる七瀬の瞳は、不安げに揺れている。

優馬は七瀬の物言いに不自然なものを感じなかった。ここが死後の世界であったとしても何の疑問もなかった。むしろそうとしか思えなかった。

 ただ、分からないことが一つあった。

 微妙に景色が揺れている気がする。全体的に景色がゆっくり揺れている。自分が揺れているのか、はたまた周りが揺れているのか。優馬には分からない。

 とそこへ、「そこのお二人さん」背後から声をかけられた。

 二人が親しげな声に振り向くと、一人の若い男が立っていた。

 男はクラシックな黒のテニスシューズに濃紺デニムを合わせ、白いニットの上にカーキ色の薄いトレンチコートを羽織っている。口髭を生やしてはいるものの顔立ちには幼さが残っていて、カジュアルな服装に細身な外見も相まって二十代前半くらいにしか見えない。

「何とか上手くいったみたいじゃないか。とりあえずはおめでとう。君たちは立派に役目を果たしたようだ。私は危うく力尽きるところだったが、間に合ってよかった」

 男はそう言って軽く手を叩いた。軽妙な仕草が冗談めかしているようでもあり、自分たちを小ばかにしているようでもある。だがそんな優馬の心境には構わず、男は語り始めた。

「ついに龍神が門を開いた。おかげでようやく町から悪霊がいなくなる。彼らも他の死者と同様にあの世へ旅立つことになるだろうからね。これでもうオカルト現象は起こらない。この町に巣食っていた呪いの連鎖が、たった今終わったんだよ」

 男の意図を読めないでいる優馬は、怪訝な表情を隠せないまま問いかける。

「あの、どなたですか」

「おっと、これは失礼。高校時代にはオカルト研究会の初代部長で、あとそちらのお嬢さんの」

「お父さん?」

 七瀬の呼びかけに、男は感慨深げにうなずいた。優馬ははっと気づいて写真を取出し見比べる。確かに写真に写っている男子生徒と目の前の男の顔は瓜二つで、歳の離れた兄弟と言われてもおかしくはなかった。

「七瀬。ここまで本当によく頑張った。……それに、大きくなった」

 二人は互いを見合うと、唇を震わせた。けれども、結局何も言わないままただ固く抱き合った。言葉は不要だった。

 しばらくしてから体を離すと、正明は七瀬を見つめながら眩しげに目を細めた。

「ははは、見れば見るほど若いころの早苗にそっくりだ。こりゃ、参ったな」

 正明は照れくさそうに頭をかいた。

「あの、質問してもよろしいですか?」

「ああ、何でも答えるよ」

「このお写真は正明さんでいいんですよね?」

「お、よく見つけたねえ。そうそう。これね、額縁の裏に隠したんだよ。懐かしいなあ。で、隣にいるのが早苗だよ。どうだ、娘に負けず劣らず美人だろう?」

「ええ、まあ」

 優馬は何と言っていいのか、返答に詰まった。この問いかけに同意することは、七瀬もまた美人であると自分から告白してしまうのに等しい。

「じゃあ、部室の研究ノートは見つけたかい?」

「はい」

「そうか。まあ他にもノートは残しておいたから、あちこち探してみるといい。参考程度にはなるだろう。ただまあ、私の研究結果は君たちが辿り付いた真相とは若干違っていたようだが」

「ねえ教えて。お父さんが駆け落ちしたのって」

「ああ、そのことか」

 正明は手短にことの顛末を伝えた。

「やっぱり、一芝居打つための狂言だったんですね」

 優馬のダメ押しに正明は苦笑しながら額を手打ちした。

「いや面目ない。上手く誤魔化したつもりだったが、まさか真相を解き明かされるとはね。そう、あれは完全に自分を悪者にするために演じた狂言だ。勘当されるくらいしておかないと、七瀬を守れないと思ったんだよ。後になって七瀬を滝上家に呼び戻されるわけにはいかなかったからね。自分のことはともかく、生まれ来る我が子だけは何としても守りたかった」

 そこで正明はふと顔を上げ、何かに思いを馳せるように遠くを見つめた。

「だが結果的に、七瀬を苦しめることになってしまった。七瀬だけではない。早苗にも随分辛い想いをさせてしまった。早苗には本当に苦労をかけた。感謝したいことと謝罪したいこととが山のようにある。だが気持ちを直接早苗に伝えることはできない」

「どうゆうことですか?」

「この状況が既に奇跡なんだよ」

 分かりにくいね、と苦笑してから正明は続けた。

「まず、君たちは生きているからね」

 優馬と七瀬は互いに顔を見合わせた。生きているのか死んでいるのか。どちらにせよ全く実感が湧いてこない。

 そんな二人を前に、正明はふうと息を吐いた。

「だが私は既に死んだ身だ。龍の道を経てあの世へ往かねばならない。にもかかわらず君たちとこうして顔を合わせている」

「どうやってそんなことが」

 優馬の問いかけに、正明は勿体を付けるようににやりと笑う。正明の表情に、優馬は正明と七瀬が親子なのだとしみじみ思う。二人揃って、こういう時の表情がそっくりなのだ。

「分からないかい? 龍神さ」

「ですが龍神なんてどこに?」

「どこも何も、僕らが今乗っているこの巨大な存在が龍神さ」

「え?」

 優馬は自分の足元を確かめる。正明の話が本当なら、自分は龍神を踏みつけている。座ったところで、尻に敷くことになる。確かに蛇行する光の筋は龍神らしくないこともないが、優馬にもなじみ深い龍の姿は、影も形もない。

「なに、心配はいらない。君たちは無事に試練を乗り越えたんだよ。今後とも力を貸し与え、協力する相手として龍神から選ばれたんだ」

「お父さん、それ本当なの?」

「絶対そうだとまでは言えないが、証拠ならある。あれをごらんなさい」

 正明が指差す方を二人が見ると、鳥の大群のような幽霊の塊がこちらに向けて迫ってくる。

「龍神が再び門を開いたんだよ。だから、あの町に留まっていた死者たちが龍の道を通って押し寄せているんだ。龍神は再び門を開いたことを見せるために君たちをここまで連れてきたようだが、ついでに私も拾ってもらえたらしい。おかげで七瀬と会うことができた。だが私はもう往かねばならない。君たちもいつまでもここにいるべきではない」

 というわけで、と正明は優馬に改めて向き直る。

「ええと、君は……」

「小暮優馬です」

「失礼。では小暮君、くれぐれもこの子を頼むよ。こういう危なっかしい子には、お人よしくらいがちょうどいいんだ」

「あ、はい」

 優馬は何ということもなくうなずいた。確かに七瀬は放っておくと何をしでかすかわからない、と深く共感しながら。

「お父さん!」

 が、七瀬は心底楽しげに笑う正明を一喝すると、ギロリ怖い目で優馬を睨み付ける。

「え? なに?」

 が、優馬には正明の意図も七瀬が睨む理由も理解できない。

「んなこと聞くな! バカ!」

 そうこうしているところに、正明の体がふわりと浮かび上がった。体半分くらいの高さに、正明の体がふわふわと浮かんでいる。一瞬驚いた表情を浮かべるものの、正明はすぐに落ち着いた表情を取り戻す。優馬と七瀬を見つめる表情は、諦め混じりながらも満足感に溢れている。

「残念だが、どうやら私も還るべき場所へ還る時が来たようだ」

「もう往っちゃうの?」

「すまない」

 七瀬の問いかけに正明は目を伏せた。

「小暮君。最後になってしまったが、生前の無念を晴らしてくれたこと、この町を救ってくれたこと、何より我が子の危機を救ってくれたこと、心より礼を言う」
 
 正明は深々と頭を下げた。

「待ってお父さん……私、まだお礼言ってない。私、お父さんが呼びかけてくれたから助かったの。だから、私もう諦めたりしないから、だから……」

 けれども肝心なところで言葉が出ない。こんな時、どんな言葉が一番相応しいのか。

「七瀬……自分の思うように生きなさい」

 逆に正明が諭すように言うと、七瀬の目から大粒の涙が溢れた。
 
 正明の言葉は簡潔だった。けれども、これこそ七瀬が長いあいだ求めてきた赦しであり、指針であり、承認であった。

 止めどなく頬を伝う涙を手の甲で拭いながら、七瀬は何度もうなずく。

 そうするあいだにも、手から離れてしまった風船のように正明の体は宙へと昇っていく。上昇を続けながら、正明は微かな笑いを浮かべ目を閉じた。

「これでもう……心残りは何もない」

 優馬と七瀬が見上げる中、正明の体から一際大きな光が放たれた。眩しさの余り目を閉じた二人が再び目を開いた時には、正明の姿は完全に消えていた。
 
 数分後。なおも二人は同じ場所を見上げていた。

「ねえ優馬」

 正明の姿があった場所を見上げたまま、七瀬が思い出したように呟く。

「なに?」

 同じように見上げたまま優馬も答えた。

「そろそろ帰ろっか」

「そうだね」

 簡単に言ったものの、どうやって帰ればいいのか二人とも知るはずもなかった。だが、今の優馬には戻り方が分かる気がした。自分たちの足元にいるのが龍神だと正明は言った。だとすれば答えは簡単だった。

「龍神様にお願いします」

 優馬はできるだけ心を込めて言葉を紡いでいく。

「僕たちを、元の世界へ送り届けてください」

 ──よかろう。

 二人は何者かの声を聴いた。耳ではなく、感覚に直接訴えてくる。威厳に満ちていてそれでいて親しみのある、何とも不思議な声だった。

 二人はどちらからともなく手を取り合い、目を閉じた。予感はあった。次の瞬間には元の世界にいる。優馬も七瀬も、確かめ合うまでもなく同じことを感じていた。