「何で七瀬のお父さんとお母さんが駆け落ちなんてしたのか、ずっと引っ掛かってた」

「今そんな話」

「大事な話なんだ。正明さんにとっても。七瀬にとっても。ほら、この写真」

 優馬は七瀬の傍らに落ちたままになっていた写真を拾い上げた。べったり貼り付いていた血はきれいになくなり、漆黒の闇の中で仄かな光芒に包まれている。

「これって、お母さん? じゃあこの人」

「そう。この人が正明さん」

 優馬は写真を裏返した。部室で見た通り、本人たちの署名と日付が書いてある。

「この二人が財産を狙うとかそんなこと考えると思う?」

 七瀬は首を振った。

「僕だって同じだよ。多分だけどね、正明さんは滝上姓を捨てることで呪いが七瀬に移るのを免れようとしたんだ。途中で気付いたんだと思う。滝上家の呪いは『滝上姓』じゃないと移らないんじゃないかって。じゃあ何で駆け落ちなんて回りくどいことまでしたかって言ったら」

 暗闇の向こうで七瀬が息を飲むのが優馬には手に取るように分かった。もし自分が七瀬の立場だったら同じ反応をするだろう。そう思った。

「全部、七瀬を守るためだったんだ。自分の命が残り短いことを知って、せめて七瀬のことだけでも守ろうと考えた。お母さんだって同じ気持ちだと思う。七瀬を龍神から遠ざけようとするのは、七瀬を呪いから守るためだったんだ」

 そこまで言うと優馬は七瀬の反応を待つ傍ら周囲に向けて神経を尖らせた。というよりも、そんなことをするまでもなく状況は明らかだった。無数の何かによって優馬と七瀬は至近距離にまで追い込まれつつあった。

 このような状況にも関わらず、七瀬はその場に崩れ落ちていた。たったそれだけのことに、万感の思いが溢れていた。

「私……私、ずっと勘違いしてた。何で私だけこんな辛い目に遭うんだろうって。龍神の調査のことも誰も分かってくれないって。でも違ってた。私、たくさんの人に愛されて、守られてた」

 七瀬の身体は小刻みに震えていた。優馬には七瀬がどれほど心を動かされているか、その気持ちがよく分かる気がした。自分は結局一人ぼっち。長いあいだ七瀬にそう思わせて続けてきた最大の理由が解消されたのだから。

「でも、それだけじゃないの」

 七瀬は力なく首を振った。

「私、優馬に謝らないといけない。だって、優馬は力を合わせて頑張ろうって言ってくれた。なのに最後の最後で反故にした」

 実際のところ、優馬は七瀬に対して怒ってなどいない。むしろ七瀬を一人にさせてしまった自分に腹を立てている。だから例え百や千の謝罪を重ねられたところで、何の意味もない。かと言って、気にしないなどと言われて大人しく引き下がる七瀬でないこともよく分かっている。

 ──生意気だよなあ。

 そう思いつつ、優馬は言った。

「七瀬が一人でここに来たことを、僕は許すことにする」

「何それ……怒らないの? 腹立たないの? 腹立ててよ。バカとか何とか言ってよ。じゃないと私……ううん、それ私が言っていいことじゃない。あぁもう何言ったらいいのか全然分かんない」

「じゃあ……そうだね。もう二度と一人で抱え込まない。いいね?」

「分かった。約束する」

「とにかくここから出よう。ぐずぐずしてられないから」

 七瀬からの返事はなかったが、優馬は構わず続けた。

「正明さんの努力を無駄にしちゃいけないだろ?」

「うん」

 七瀬はぐずりながらもうなずくと、優馬を掴んでいた手を放した。

「────」

 耳に届いた化け物じみた雄叫びに、優馬は体を強張らせた。同様に、七瀬の息づかいが小刻みに震えている。

「聞こえてるんだね?」

「うん」

「────」

 再び雄叫びが轟いた。

 間近に迫る雷鳴のようだった。

「残念だけど、いくら逃げようとしたところできっと逃げられない。仮にこの場所から逃げたとしても、暗闇からは抜け出せないし、あいつらがどこまでも追いかけてくるよ」

「じゃあどうするのよ」

 七瀬の責めるような問いかけに優馬は思わず笑みをこぼした。七瀬はこうじゃないと、などと場違いなことを思う。

「分かってみれば簡単だった。つまりね、怖いと思うから怖いんだ。こっちが恐れなければ、奴らは力を発揮できない。逆に、こっちが恐れている限りどんどん力を増幅させるんだ」

「私たちは恐怖心のせいでここにいるってこと?」

「そう。だからここから抜け出すための答ははっきりしてる。怖がらない勇気を持つ。それだけだよ」

「何でそんなこと優馬に言われないといけないのよ」

 七瀬は思わず吹き出しながら答えた。けれども優馬をヘタレとは冗談でも呼ぼうとはしなかった。七瀬にそうさせるまでに、二人の関係は変わってしまっていた。

「やってやるわよ」

 叩きつけるように宣言すると、声のした方へ向かって七瀬は目を見張った。が、すぐに腕を伸ばして優馬の手を捕まえると、力いっぱいに握りしめた。その手は冷たい汗に濡れている。

「優馬、あのね、その……いいから黙ってて!」

 理不尽な物言いをする七瀬のことを、優馬がすっかりいつも通りだと思っていると、わずかな時間の内に周りの暗闇は急速に薄くおぼろげになっていた。さらに勢いを付けて光が差しこみ始めたところで、二人は思わず目を閉じた。

 目を閉じつつも、優馬は迎え撃つくらの強い気持ちでいた。

 が、待ってみても何も起こらなかった。
 
 目を閉じていても感じられるほどの明るさの一方で、辺りはしんと静まりかえっている。霧に煙る早朝の湖畔のような眩しさの中で恐る恐る目を開いてみると、あろうことか今までに見てきたどの風景とも違う、どこなのか全く分からない場所に二人はいた。