ここはどこで、どうやってきたのか。

 なぜ自分たちはここにいるのか。

 分からないことばかりが浮かんでくる。

 優馬の背中に冷たい汗がにじんだ。

 ──突然変な場所へ迷い込む。

 あの噂に思い当たったのだ。

 とそこへ、「もし、そこのお方」すぐ背後から呼びかける声がした。

 二人が恐る恐る振り向くと、一人の若い女が立っていた。

 緋袴に白衣、さらにその上に無地の千早、という姿をしていて長い黒髪は後ろで一つに束ねられている。その姿の示すところは巫女、ということになるのだろう。

 女は二人を等分に見つめていた。表情に怒りや恨みは感じられず、神職にふさわしい清廉な雰囲気に満ちている。

「よほどの縁がない限りここへ辿りつくことは叶わないはずですが」

 二人に向けて語りかけながら、女は洞窟に向けてゆっくりと進んでいく。

「もしやあなた方は光の……なるほど、そういうことでしたか」

 振り向いた女は、一人で納得したようだった。

 だが優馬たちはそう簡単にはいかなかった。

「ほら、やっぱり変なことになったじゃないか。淵の対岸には幽霊が出るって話、有名だろ?」

「しょうがないじゃない。知らなかったんだもの」

 優馬の恨みがましい言葉にも、七瀬が悪びれる様子はない。

「それに、悪い人じゃなさそうだし」

 七瀬は女に向き合い、問いかけた。

「ねえ、あなたは誰なの? 幽霊なの?」

 言われてみれば優馬にも不思議な感覚があった。ヘタレとあだ名されるほどの自分でさえ、光を浴びた時に出くわした化け物のような恐怖が一切ない。

 女は七瀬の目を静かに見返していた。心の奥底までを見通すような、澄み切った目をしている。七瀬はぞくりと身を震わせたが、それもほんの一瞬のことだった。

 女は一旦目を閉じ、息をほう、と吐きだした。

「私の名は若葉と申します。生前は巫女としてこの村をお守りいただく神々に仕えておりました。どうしてもお伝えしておきたいことがございまして、私の姿を見通すお方が現れるのをお待ちいたしておりました。」

 凛とした声が辺りに響く。

「怖がらせてしまいましたこと、深くお詫びいたします。ですが、あなた方に危害を加えるようなことはいたしません。どうかご安心を」

 女は深々と頭を下げた。

 七瀬と優馬は、どう反応していいかも分からないまま互いの顔を見合わせた。

「本物の幽霊?」

「みたいだね」

 どうやら危険なことはないということまでは分かる。かと言って、これから何が始まるやら見当もつかない。

「あの、やっぱり若葉さんはもう……」

 七瀬の問いかけに、若葉は軽くうなずいてから落ち着いた抑揚で話し始めた。

「私の体はとうの昔に滅んでおります。またこの場所も私によって作られた幻のようなもの。ここは元の世とは切り離された場所でございますが、ごくまれにあなた方のように紛れ込む者が現れるのです。とは言え、もはや人ならぬこの身を見るのは容易ではございません。よって、私の姿を見たなどという話があったとしてもほら話の類でございましょう」

「じゃあ、あなたが滝に飛び込んで死んだっていう話は」

「紛れもない事実でございます。淵の底まで潜れば骨と成り果てた私を見つけることができましょう。ですが、世の中に伝わっております話の全てが事実ではございません。世の中には私が人をたぶらかしたために村を追われ、身を投げた。そういう話になっているそうでございますね」

「そうなの?」

「そうだよ。村人をだました挙句村から追い出されたから身を投げて死んだって」

「左様でございますか……ですが、このことについては事実ではございません」

 若葉は表情を曇らせたが、すぐに元の表情へと戻っている。

「私は龍神を介して神々のご意思を伝える役目を負っておりました」

「えっ? 龍神ってやっぱり本当にいるの?」

「もちろんでございます。しかも数えきれぬほどでございます」

 七瀬のややぶしつけな問いかけにも、若葉は力強く答えた。

「龍神はこの村と別の世とをつなぎ、神々のご意思を伝える神獣でございます。龍神はこの村へ来るための通り道を持っており、以前は度々訪れることもあったようです。我々は龍神の通り道を『龍の道』と呼び崇めて参りました」

「龍の道ってもしかして」

「今あなた方がご覧になっているこの洞穴でございます」

「あの中を進むと龍神に会えるの?」

 若葉は首を振った。

「行けば会える、というものではございません。私も龍の道に立ち入ったことはございません」

「あの、龍神はもうこの町に来てないんですか?」

「遺憾ながら」

 優馬の質問に若葉は声のトーンを落とした。

「かつて、この村の人々は神々と龍神とを崇め、大切にお祀りしておりました。ところが一部の者たちが龍神による神託を拒んだのです。結果巫女であった私は神の名に威を借りた不届き者との汚名を着せられ、村を追われることとなりました。その後失望した龍神たちは門を閉ざし、元いた世界へと戻っていってしまいました。龍の道は『あの世』にも通じております。ですから、門を閉ざされては亡者たちがあの世へ旅立つこと叶いません」

「もしかして、それって滝上家が仕組んだんじゃ」

「その通りでございます。滝上一族は神社に古来よりあった『龍の道』への門としての役割をないがしろにした上、神社の改修と併せ新たに聖域を作り上げてしまったのです」

「この町がオカルト現象だらけなのと関係ある?」

 若葉は首を傾げた。

「七瀬、オカルトじゃ分からないよ」

「そっか。ええっと、お化けが出たりとか悪いことが起きたりとか、あと災害が起きたりとか」

「当然でございます。元来、この世に留まる亡者の中には悪霊と化し害をなす者が多々おります。また、天土の均衡にも綻びが生まれ、山や川が荒れることもございましょう」

「あの、伝えたいことって」

 ええ、と若葉はうなずく。

「閉ざされた門を再び開き、龍の道を復活していただきたいのです」

「話が大きすぎるよ」

 優馬は浮かない表情でぼやいた。

 無理もない。ここまで話が膨んでしまえばもはや龍神調査どころではない。町そのものを巻き込む重大ごとなのだ。その上、話の内容が正しいならば門の開閉は人間の力によってできるものではない。

 だが優馬のグレーな心境にも構うことなく、若葉は静かに語り始めた。

「光の力を持つあなた方であれば、あるいは龍神の心を動かすことができるやも知れません。ですが、このまま神々のご意思を伝える龍神なきままであれば、やがてこの村は滅びの道を辿ることとなりましょう。それだけは何としてでも避けねばなりません」

「その前に教えて欲しいんだけど、私たちが龍の道……だったっけ? あそこで浴びた光は、一体何だったの?」

「あなた方を手助けするために龍神によって与えられた力でございましょう」

「選ばれたってこと?」

「そのようにお考えになってもよろしいかと」

「だけど、特に恩恵みたいなのがないんだよね」

 今一つ納得のいかない優馬に、若葉はゆっくりとけれども確実な動きで首を振った。

「与えられるものが、人間にとって都合のいいものばかりとは限りません。全ては神々のご意思なのです。いずれお分かりになられる時が来ることでしょう」

「あの、なんていうかその、ちょっと回りくどくないですか」

 淡々と答える若葉に、優馬は浮かんできた疑問を口にした。何故あの時すぐに門を開いてはくれなかったのか。

「龍神はあなた方を試しているのです。龍神はかつてこの村の人々に失望し、門を閉じてしまいました。ですが、場合によっては考えが変わることもあり得るということなのでしょう」

「なるほど」

 優馬はふむふむとうなずく。

「私、その話乗るわ」

 七瀬の答えには迷いがなかった。進む以外の選択肢などないかのようだった。

「七瀬?」

 優馬は七瀬と生徒会長とのやり取りを思い出した。また何かしでかすんじゃないかという予感が頭をよぎる。

「龍の道からじゃないと龍神は来てくれないんでしょ? だったら、門を開けるしかないじゃない。私たちは龍神がいるってことを証明しないといけないのよ?」

 七瀬の言い分には納得しつつも、優馬は考えずにはいられなかった。

 藪の道を進もうとした時と何が違うのか。

 もしかしたら、今度こそ致命的にひどい目に遭うかもしれない。

 それでもいいのか、と。

 七瀬を止めることができるのはやはり自分だけで、時は今なのだ。

 だが前回とは決定的に違うことがある。

 光を浴びたことで「力」を得たこと。

 だからこそ、今こうして龍神を呼び出すことを託されている。

 何より、今回は自分たちだけの独断ではない。

 若葉からの依頼を受けてのこと、である。

「やります」

 優馬は顔を上げ、はっきりと言い切った。これでいい。そう思った。妥協ばかりの優馬にとっては珍しい、決意のこもった返事だった。

「お願いできますか」

 だめを押す若葉に、優馬は黙ってうなずく。

「感謝いたします」

 若葉は再び深々と頭を下げた。

「では、これからあなた方を元の場所へ返します。すぐ傍に古びた地蔵があるはずです。この地蔵に触れてみてはいただけないでしょうか。『光』の力を持つあなた方が力を合わせれば、当時の人々の記憶をつぶさにご覧いただけることでしょう」

「でも、力を合わせるって、どうやるの?」

 七瀬の問いかけに、若葉は微かな笑みを浮かべた。

「何も難しいことはありません。互いの体に触れるだけでよいのです。ちょうど今のあなた方のように」

「あっ」

 優馬が弾かれたように手を放すのと同調するように、若葉の体が消え始めた。

「おや、どうやらお別れの時が来たようです。ですが、例え姿が見なくとも私はここにおります。また何か知りたいことがあれば、いつでもお相手いたしましょう。伝えるべきことは伝えました。それでは、今日はこれにて」

 目の前に靄ががったような気がしたかと思うと、二人は元の場所へ戻ってきていた。