優馬が帰ってからさらに十分ほどが過ぎたころ、激しい口論の末ほとんど逆上と言っていい様相で七瀬の母が病室を出ていった。

 嵐のような時間が過ぎようやく一人きりになった七瀬は、ヘッドボードに預けていた上半身をずるずると引きずりベッドへと横たわる。

 たまたまではあったが廊下に人の気配はなく、音らしい音もない。ほんの少し前までのことが嘘だったかのような静寂に、七瀬は思わず深呼吸してしまう。

 落ち着いたところで頭に浮かんできたのは、いつになく真剣な優馬の目だった。

 ──一方的に謝らないでくれないかな。

 巻き込んでしまったことについて謝ろうとした七瀬を、優馬は押しとどめたのだ。

 あの時、七瀬もまた優馬の言わんとすることを素早く、かつ正確に読み取っていた。確かに七瀬の脳裏には優馬から責められるんじゃないかという思いが一瞬は過ったのだ。けれども優馬が思っているのはそんなことではなかった。
 
 悪いのは七瀬だけじゃない。だから一人で背負わなくていい。誰に対しても謝る必要なんてない。
 
 子どもじみた身ぶりに隠れ、随分遠まわしな上に言葉足らずではあった。が、優馬は確かにそう言ってのけたのだ。だからこそ、優馬を見返すことを躊躇わずにはいられなかった。にわかにこみあげてきた後ろめたさが、七瀬の首筋に重く圧し掛かっていた。

 辛辣な言い方をすれば、七瀬はあの時まで優馬を侮っていた。面倒な部分は自分一人で背負い、優馬は致し方なく手伝わされただけ、という筋書きにするつもりだった。いざとなれば、自分が責めを負えば丸く収まる。優馬も同じことを望んでいるに違いない。そう考えていたのだ。

 ──甘かった。

 今頃になって、七瀬は自分の認識不足を自覚せずにはいられない。

 優馬が調査について後ろ向きであることは薄々ながら知っていた。当然、言いだしっぺである自分に対する認識もまた後ろ向きであるに違いない。そう思いこんでいた。今まで黙っていたことが数あることもまた、七瀬の気持ちをより一層重たげなものにさせていた。

 けれども、今日の優馬は一味違っていた。

 今まで七瀬がせっせと築き上げてきたバリケードを踏み越え、むき出しの内面にまで迫ってきたのだ。

 ──こんなところに一人でいるな。

 と、言われた気がした。他者とのあいだに壁を作り、閉じこもることを戦うことだと思っていた。親しさを装いつつ、その半面優馬に距離を置こうとした。
ところがそうはならなかった。

 バリケードの外から降り注ぐ一筋の光を、あのとき確かに感じたのだ。

「何よ、かっこつけてくれちゃって」

 駄々っ子のように尖らせた口から、ぼそり一言こぼれ出る。

 言った途端、七瀬はにわかに火照った顔をぼすっと枕に埋め膝を両手で抱え、ベッドの上で身をよじった。猛烈な勢いでこみ上げてきた恥ずかしさで、いても立ってもいられないのだ。髪のあいだから辛うじて顔をのぞかせている耳朶は腫れたように赤く染まり、七瀬自身の隠しきれない心の揺れを何よりも雄弁に物語っている。

 こぼれ出た言葉がただの強がりでしかないことくらい、七瀬自身も十分に理解している。理解しているからこそ、こうも顔が熱い。

 けれども、今までの認識をはいそうですかと裏返すことは容易ではない。何といっても相手はあのヘタレの優馬なのだから。

 子どもの頃、優馬が崖から淵に飛び込んだ時は七瀬も目を見張らずにはいられなかった。七瀬自身、決して楽にやり遂げたわけではない。極めて狭い人間関係の中で潰されないために必死で挑んだ。何度も失敗を重ね、少しずつ高さを上げてようやく成功させた。

 それを、優馬は不完全ながらもたった一度の挑戦でやってのけたのだ。

 都会から引っ越してきたばかりのへなちょこが半べそかいて腰を抜かすところを見てやろう。七瀬が抱いた意地の悪い下心は、けれども気持ちいいくらいに当てが外れてしまっていた。と同時に、飛び込んだ直後に優馬が鼻血を垂らしながら気絶してしまったことには、脱力せずにいられなかった。

 一体どちらが本当の優馬なのか。興味を持った七瀬はことあるごとに優馬を連れ回し真相を突き止めようと試みた。が、優馬がヘタレという不名誉なレッテルを跳ね返すことなどただの一度もなく、むしろいじけた態度に七瀬が苛立つばかりだった。

 結局、微かに抱いていた期待が満たされることのないまま七瀬は町を出ていかなければならなかった。再会してからも優馬は相変わらずで、七瀬は優馬のことを完全にヘタレ扱いしてしまっていた。

 それなのに、である。

 優馬を侮りきっていた七瀬にとって、先ほど優馬が見せた言動は完全な不意打ちだった。かつて見た「勇気のある優馬」が蘇ったかのようだった。

 ──優馬のくせに! 優馬のくせに! 優馬のくせに!

 もはや口に出そうとはせず、ただ頭の中に混じる余計なものを追い払うように幼なじみを罵倒する。そうしておけば優馬はいつまでも弱虫なヘタレのままで、自分がいくら粗暴に扱ったとしても無条件で許される。

 ……などというのは、無邪気で傲慢な思い込みでしかないことくらい、七瀬自身も分かっている。ムキになればなるほど、逆に客観的かつ冷静な自分がいることも七瀬は確かに感じていた。優馬に感謝しなければいけないことは、否定しようのない事実に違いなかった。

 何と言っても、七瀬は自らの退学とオカルト研究会の存続とをセットにして賭けのテーブルに並べたのだ。他でもない自分一人の意地のために。いっそ愛想を尽かされたとしても、恨みごとを言われたとしても、何ら言い返せるような筋ではない。

 ──私は優馬に甘えたんだ。

 だからこそ、そう結論づけずにはいられない。

 仮に他のアプローチでオカルト研究会を巻き込んだとしても、あれ以上の甘え方があっただろうか。意見の一つも聞かないまま、七瀬一人の独断で賭けに出たのだ。

 あの時の七瀬に、「優馬だったら許してくれる」という気持ちが少しもなかったかと問われれば、「否」である。

 オカルト研究会に優馬。

 本当に運命的としか言いようのないタイミングであの場所にいてくれた。しかも優馬は龍神について調べようとしていた。そこを頼みにしたのだ。にもかかわらず、優馬は賭けをなかったことにしようするどころか、無謀な調査に付き合ってくれている。

 いかに七瀬が手綱を握っているように見えたところで、結局のところは砂上の楼閣でしかない。つまり、優馬がオカルト研究会を諦めてしまえば済むだけのことなのだ。

 これがありがたくないと言うのなら、何がありがたいと言うのだろう。

 七瀬は両目を閉じると胸に手を当て、自らの心に向けてそっと囁きかける。この期に及んでなお諦め悪く足掻く、素直じゃない自分に向けて言い聞かせるように。

 ──もうヘタレなんて呼んじゃいけないよね。

 というのが、辛うじて辿りつくことのできた現実的な妥協点だった。