「我ながら言ってくれたものだな」

 荒く息を擦れさせながら、生徒会長は洗面台の鏡に映る自分を見つめていた。いつもの勢いや自信は影ほどもなく、ただ憔悴しきっただけのありきたりな高校生が映っている。

 自分の顔をじっと見つめていた生徒会長は、にわかに喉にこみ上げてきたものに顔を俯かせ、洗面器に向けて強く咳こんだ。背を丸め、胸を押さえ、内臓まで吐き出してしまうんじゃないかと言うくらいの発作が狭い洗面所いっぱいに響き渡る。両腕を壁に押し付け、ぶるぶると震える両脚を洗面器に預けることで辛うじて身体を支えている。

 蛇口から勢いよく流れ出る水は洗面器の表面にぶつかって弾け、踊り、回転しながら排水口の下へ流れ落ちて行く。洗面器の水が行き渡らない所には鮮やかな赤色が点々と滴っている。

 生徒会長は夏休みということもあってより一層人気のない特別教室棟のトイレにいた。発作の予感に栞とのやりとりを切り上げ、結核患者のような発作に身をよじりながら血を吐きだしていた。

 額に滲み出た汗が玉になり、伝い落ちて顎から滴り落ちて行く。口の端からは、溢れ出た血が筋を作りながら伝い落ち、固まりかけた血の塊が手の甲で拭ったせいで頬の辺りまでを赤黒く汚してしまっている。
 
 発作はずっと以前からあった。初めのうちは風邪か花粉症くらいにしか思っていなかった。けれども収まるどころか時間を追うにつれて次第に酷くなり、頻度も増えていった。ついにある日、鏡に映った顔にどす黒い痣が浮かんでいるのを見つけた。けれどもこのことに気づく者は自分以外誰一人としていなかった。

 だからこそ人には語らず、肝を冷やしながらも日々誤魔化し続けてきた。同時に、限界が近いことも理解していた。次に発作がくればただではすまない。そんな気がしていた。もしも選挙当日に発作が起きるようなことがあれば、選挙どころの騒ぎではなくなる。

 栞の、自分の志を継ぐ後輩の門出を自らの失態と血で汚すようなことだけは、何としても避けなければならなかった。

 ──分かってくれればそれでいい、か。

 思わずこみ上げてくる皮肉めいた笑いに、生徒会長は小さく肩を揺すった。

 何度思い返してみても趣味の悪いジョークにしか思えなかった。栞には何も伝えず、教えず、近づけない。そう決めたのだ。だからこそ、栞に分かることなど一つもない。にも関わらず、分かってくれればなどという上辺ばかりの言葉を使って差し伸べられた手を拒んだ。栞が本心から心配してくれているというのに。

「すまない」

 謝罪の言葉は、けれども栞の元へ届くはずもなくただ当てもないまま虚しく漂う。栞の根っからの優しさを知るだけに、拒絶した反動は自らをも深く鋭く抉っていた。

 ──こうするしか方法がないんだ。

 滝上家に代々伝わるという不治の呪いが、生徒会長の身体に巣食うものの正体だった。次々と宿主を変え、一人、また一人と呪い殺していく。生徒会長の母もまた早くに亡くなり、その数年前には伯父の正明がこの世を去っている。さらに遡れば、原因不明の病に倒れ死んでいった者が一族の中に数え切れないほどいる。

「我々の繁栄を妬んだ者による呪詛に違いない」

 一族の中にはそう結論付ける者もいた。しかし呪いの原因そのものは分からず、呪いを解消させることもできずじまいで、手の打ちようがないままただ犠牲者だけが増えていた。

 生徒会長自身、初めて聞かされた時にはまさかと思った。が、呪いの本体がこれかと、自分が呪いを受ける身となって嫌というほど思い知らされたのだ。

 生徒会長は自らを蝕む呪いが栞へ乗り移ってしまうことを何よりも恐れていた。栞と自分との距離が今以上に近づくことで呪いの力が栞に及んでしまうのではないか。恐怖にも似た想いが、栞を遠ざけさせていた。

 今のところではあるものの、呪いと思しき不審な最期を迎える者は滝上一族の身内に限られている。であれば、栞に入れ込まずまた受け入れないことによって距離を保つことができれば栞を守れるのではないか。そう考えたのだ。

 だからこそ、身体を引き裂くほどの想いで以て栞を自身から遠ざけねばならなかった。一方で感傷のために栞を立ち止まらせてしまうわけにはいかなかった。何としても選挙での圧倒的な勝利によって、自分の後継者であることを校内に知らしめねばならない。でなければ、安心して自分の後を託すことなどできるはずもない。
 
 ──きっと栞だって分かってくれるはず。だから……

 そう自分に向かって言い聞かせようとして、

「―――――――――――――っ!」

 突然、生徒会長は声にならない声を上げながら両手で毛が抜けてしまうほどの勢いで髪をぐしゃぐしゃにかきむしり、けれどもそれくらいでは到底収まるものではなく。

 ──畜生っ……畜生っ……畜生っ!

 気付けば、俯いたまま力まかせに何度も何度もタイル地の壁に握りしめた拳を叩きつけていた。同じ場所を何度もぶつけたせいで関節部位の皮が擦り剥け、白い真皮には血が滲んでいた。それでもなお打ち続けた結果、壁にはところどころ赤黒い血痕がへばり付く。
 
 それでも、生徒会長は痛みなど端からないかのようになおも拳を叩き続けた。
 
 怒り。悲しみ。妬み。悔しさ。無力感。

 様々な感情が同時に湧きあがり更には互いにぶつかり混ざり合って新たな色を作り出す。けれどいくら混ぜたところで澄んだ色は現れず、ひたすら暗く重たく澱んでいく。

「何でこんな目に遭わなければいけないんだ!」

 心からの叫びだった。

 一度気持ちを吐き出してしまうと、もう止め処がなかった。人前で押し殺し続けてきたものが溢れ、溢れ、溢れ、制御不可能な感情の洪水となって生徒会長の弱りかけた心を勢いよく飲みこんで行く。

 ──あぁ。

 自分が慟哭していることに気付いたのは、暫く後になってからのことだった。

 もはや自分ではどうすることもできなかった。喉は震え、絞り出すように嗚咽が溢れた。 涙は頬を伝い、浮き出た汗と混じり合いながら滴り落ち、洗面器の表面をなぞっていく。

 何故自分はこんな訳の分からないもののために死なねばならないのか。呪われて死ぬことを運命づけられて生まれてきたのだろうか。自分にとって命とは、生きるとは、一体何だったのか。

 理不尽だった。

 町一番の名家に跡取りとして生まれ、思いのままに力を振るう無敵の生徒会長。

「ははっ」

 乾ききった笑いは、絶望の色を濃厚に帯びている。

 何もかもを約束されたように見えて、結局のところ何一つとして死を免れるための救いになどなりはしなかった。

 滑稽だった。

 滝上家の跡取りとして育てられ、強い自負と共に生きてきた。にも関わらず、与えられた役目をろくに果たすこともないうちに命が尽きようとしているのだ。

 自分に比べたら、伝説上の生き物を見つけようと悪あがきを続けるオカルト研究会の方がまだ主役として相応しいと思えた。全てを与えられ、紛れもなく主人公枠であるはずの自分は間もなく舞台を去り、オカルト研究会を潰されるに違いない彼らは何と言うこともなく生き続けるのだ。

 いっそお互いの立ち位置が逆であればちょうどいい。などと考えたところで生徒会長は力なく首を振った。風前の灯でしかないオカルト研究会でさえ、決して手が届かない明星に思えたのだ。

 惨めだった。

 もうじき呪いが全身に回り、ほんの十数年生きただけの寿命が尽きる。この圧倒的な絶望に比べれば、拳の痛みなどどうでもいいことのように思われた。

 ──例えそうだとしても。

 生徒会長は顔を上げ鏡に映った自分の目を見つめた。

 ──まだだ。まだお前はやれるはずだ。

 自分を鼓舞したくて、弱りかけた心に言い聞かせる。所詮気休めにすぎないことくらい、嫌というほど分かっている。だとしても、今倒れてしまうわけにはいかなかった。

 ──オカルト研を完全に潰すまでは……それまでは……。

「ここで止まる訳には行かない」

 生徒会長は鏡の向こう側にいる自分に向かって引きつった笑みを見せると、後はもう何事もなかったかのような涼しい表情で洗面所をあとにした。