ドアノブの重い金属音に顔を上げると、生徒会長は既に生徒会室を出た後だった。今は何の変哲もない白い扉が、廊下と生徒会室とを静かに隔てている。

 ──やれやれ。

 優馬は、ほぅと息を吐き出しながらぐるぐると肩を回して脱力。自分も扉へ向けて歩き出す。

「あの、優君?」

 と、背中に向かってかけられる柔和な声。

 優馬はびくんと体を強張らせ、ぎぎぎと音を軋ませそうなくらいぎこちない動きで振り返る。

「久しぶりだねっ」

 優馬とは裏腹に、栞はちょこんと首を傾けにっこりと微笑んでいた。たったそれだけで、黒い霧でもかかったように辛気くさかった生徒会室に華やいだ雰囲気がぱぁっと広がる。

 制服は生徒会らしく上から下まで校則通り。普通であれば堅苦しさが漂うところではあるが、持ち前の笑顔がそれを感じさせないでいた。

 優馬は、数年のあいだ隔たっていたことがまるで何かの勘違いだったかのように感じずにはいられなかった。相手の懐に躊躇なく飛び込み、互いの距離を埋めてしまう。そんな人あたりのよさこそ、栞が次期生徒会長と目される最大の理由であった。

「あ、ああ、うん」

 けれども何と答えていいのやら。優馬はこれ以上ないくらい見事にきょどり、目は落ち着きどころを求めうろうろと彷徨う。

 優馬は俄かに顔が熱くなるのを感じながら、逃げるわけにも隠れるわけにもいかず、もう一人の幼なじみを前に完全にテンパっていた。

 久しぶり過ぎて何を話していいのか分からない。だが、そんなことより。

 ──栞といい七瀬といい、なんでこうも女の子に弱いんだろう。

 優馬はいっそ机の下にでも隠れてしまいたい衝動に駆られる。

 どうして自分はクラスの男子たちと同じようにできないのか。どうして他人にとって何でもないように見えることが、自分にとってはこうも難しいのか。いや、ひょっとしたらむしろ自分の方が普通じゃないのか。だってこんな子が目の前にいたら誰だって平静じゃいられないに決まってる。むしろそうに違いない。とか、そんなことを考えながら。

「何話してたの? 滝上会長と」

 非モテ男子校内代表の懊悩などおかまいなし。興味津々とでも言うようにくりくりとした愛嬌のある目が優馬を覗きこむ。おまけに鈴の音のような声はころころと弾み、優馬の鼓膜と心臓とを心地よく震わせる。

「えっ、あ、その」

 あからさまにうろたえつつ、優馬の頭にはいくつもの疑問が浮かぶ。果たして、自分は栞からこうも気さくに話しかけられるような間柄だったのか? 
 
 いくら幼なじみとは言えもはや昔の話。今となってはアルバムの中にその名残を留めるだけ、のはず。なのに何故急に自分との距離を縮めようとしてきたのか。優馬には分からないことだらけだ。

「ごめん、驚かせちゃったね。そうだよね、私たち全然話せる機会なかったし。中学くらいからだったかなー。段々優君と話せなくなっちゃって、それ以来だよね」

 優馬を先回りするかのように、栞は問わず語りを始めてしまう。

「私も気にはなってたんだよね。でもなかなか声かけられるきっかけがなくって」

 優馬は近頃の栞を思い出しながら深く納得していた。高校入学からほどなく生徒会役員となってからは、栞の居場所は常にスポットライトの中心だった。眩い光の輪に近付くことなど、日蔭者の自分にできようはずもない。ついそんな卑屈なことまで考えてしまう。

「何年ぶりくらいかなー? あ、もしかして忘れちゃった? 私のこと」

「あ、うん、じゃなくって」

 優馬の口と頭とは互いに上手く噛み合わず、支離滅裂にもつれ合う。

「ホントかなあ。怪しいなあ」

 けれども優馬をからかうように、栞の目は柔和に笑っている。

「そ、そんなことは別にないというかでも話しかけられなかったのは事実というかああもう何言ってるんだろ」

「ふふ。いいよ、気にしてないし。それより、秋山さんに振り回されて色々と大変じゃない?」

「へ?」

 突然の変化球に、優馬は目が点になる。

「ああ、うん、大変と言うか何と言うか、まあでも元々廃部寸前だったし」

「それだけ?」

 今度は栞の目が点になる。

「うん」

「そっか。優君、昔っから『そういうとこ』鈍いもんね」

「そういうとこって、どういうとこ?」

「優君は分からくていいの」

 栞は穏やかな表情で優馬を見つめながらくすっと微笑む。

「だって、そのままでいる方が優君らしいもの」

 栞は腰の後ろに回した両手を組み上半身を少し前かがみにさせたまま優馬との距離を縮めると、腰を軽くひねって優馬を見上げた。からかうように茶目っ気たっぷりの瞳は、揺らぐことなく優馬を見据えている。

「七瀬にも同じこと言われた気がする」

 優馬は反射的に顔を逸らすと、対照的にぶすっとむくれて見せた。

「秋山さんにも?」

「そうだよ」

「そっか。なら、安心かな。私は」

 優馬必死の抵抗も、栞には何の効果も与えなかった。目尻を下げながら優馬の赤く染まった耳を見つめる表情は、むしろ心底嬉しそうで。

「さっきから何言ってるのか意味分かんないよ」

「やっと普通に話してくれたねっ」

 地平線まで続く向日葵のような笑顔が優馬目がけて花開いた。呆気に取られた優馬は、返すべき言葉を見失う。

 ──やっぱり敵わないなあ。

 などと、今更ながら思い知る。

「優君、相変わらず優しいよね。昔から全然変わってなくて、なんか安心しちゃった」

 さらに並べたてられる言葉のむず痒さに、優馬は思わず身をよじらせた。

「でも、あんまり秋山さんに優しくしたらだめだからね。優君は優しすぎるから。そこが心配かな、私は」

「え?」

優馬は栞の言葉の意味が掴めなかった。

「ごめん。やっぱ今のなし。気にしないで」

 栞は困ったように笑いながら、両手を振ってみせた。

「秋山さんかぁ。ちょっとのあいだだったけど、三人でよく遊んだよねえ」

 栞は顎に人差し指を当てながら天井を見上げている。かつての日々を懐かしむように、目は楽しげに弧を描く。

「昔から変わってたよね。秋山さんが変なこと言い出して、優君が巻きこまれて」
 
 そこで不意に栞は顔を背け、笑いを堪えようと試みるも、結局堪え切れずに笑いだす。

「スカート履いた優君、可愛かったなあ。秋山さんに『優子ちゃんだ!』って言われて!」

「へ、変なこと思い出さなくていいよ!」

 優馬の脳裏には、姿見に映る顔を真っ赤にさせたスカート姿の自分と、にやにやと覗きこむ七瀬、隣で恥ずかしがっているのは、スカートを提供させられた栞。背中から嫌な汗がどっと吹き出すのを感じながら、否応なしに蘇って来るイメージを首を振ってかき消した。

 七瀬と言い栞と言い、女の子のこととなると優馬にはろくな思い出がない。

「ふふ、冗談だよ」

 と、そこでスイッチが切り替わったように栞は表情を引き締める。

「そう言えば秋山さん、様子はどうなの? 優君、何か聞いてない?」

「あ、うん。意識はもう回復してるらしいんだけど、精神的なショックがまだ残ってるらしくて。だから落ち着くまでもう少しかかりそうだって。あと警察の聞きとりは中止になったって」

「そっか」

「うん。あ、でもこれ学校から連絡受けてるだけだから、実際のところはよく分からないんだ。七瀬は携帯持ってないから直接連絡できないし、家族の連絡先は知らないし」

 栞は一瞬物言いたげに口を開きかけたもののすぐに表情を戻し、結局何も言い出さないまま優馬に向けていた視線を一旦落とした。それから視線を上げようとしたところで瞳を揺らすと、窓外に広がる抜けるような青空を眩しげに見上げた。
      
「ね、優君。あの子がこの町に戻って来た理由って、聞いてる?」

 予想だにしなかった質問に、目をまん丸に見開いた。本当に何も知らないのだ。

「聞かされてないの?」

 栞の表情がふっと陰った。

 首を振る優馬を尻目に、栞は軽く握った拳を口に当てて真剣な表情を浮かべる。

「『知らない方がいい』って」

「あの子がそう言ってたのね?」

「確か」

「そっか」

 再び窓の外へと視線を向けた栞の表情は何を物語るのか。

「色々苦労してるの、あの子。そんな風に見えないかもしれないけど。ほんとだったら、輝くような学校生活送ってても少しもおかしくないのに。期待とか、憧れとか、そういう光をいっぱい浴びて。私なんかじゃ到底」

 言いかけたところで栞ははっと目を見開いたもののまたすぐに緊張を解き、「ううん、それだけだから」と言って優馬に笑いかけた。

 栞の言葉の意味もやや強張った笑顔の意味も、優馬は汲み取ることができない。ただ、例えどんな意味であるにせよ、どこか寂しげなものが混じっていることだけは感じることができた。

「あの子が何も言わないんだったら、私もあれこれ言わない方がいいと思う。もし気になるようだったら、優君から直接聞いてみてくれないかな?」

「あ、うん」

「役に立てなくて、ごめんね」

 栞は両手を合わせ優馬に向かって軽く片目を閉じた。いたずらっぽい笑みを含んだ瞳が優馬を見上げ、閉じられた瞼からは今にも星が飛び出しそう。滲み出る優秀さの中に茶目っ気をも忘れない表情からは、もはやほんの一瞬前の憂いなどどこにも感じられない。 

 代わりに子犬のような愛嬌がそこかしこに溢れていて、ただ自分のすぐ側にいるというだけのことで優馬の心をしきりにざわつかせた。

 栞に視線の行き先を吸い込まれながら、優馬は何をどうしていいのか分からなくなっていた。栞と七瀬とのあいだに何があるのか。栞は何を知っているのか。聞きたいことはたくさんあるはずなのに、追求する勢いを削がれてしまう。

 優馬は、完全に話のペースを奪われながらうっすらと思う。

 ──なんか、僕だけのけ者にされてない?

 七瀬の話も、栞の話も、自分にはさっぱり分からない。知らなければいけないことがあるはずなのに、上手くはぐらかされているようなもどかしさがあった。中身はあるのに、見せてはもらえない。そんな生殺し気分を味わいながら、優馬は小さくため息を吐く。

「優君、それと、なんだけどね」

「ん、なに?」

 けれども栞は両手の指先をもじもじと弄るばかりで、なかなか切り出そうとはしない。優馬は急かすような言葉や態度を使わず気長に待った。

「あのね……滝上会長、なんだけど、その……いつもと何か違ったりしなかった?」

 ──いつも……いつも?

 優馬とて、生徒会長とそう何度も顔を合わせているわけではない。となれば、当然の帰結として比較データは七瀬が入部した時とつい先ほど、ということになる。が、双方のあいだにはどれほどの差もないわけで。言い方は悪いが、典型的な嫌な奴というのが優馬から見た生徒会長の印象だ。

「いや、いつもっていうか、前とあんまり変わらなかったけど。どうかしたの?」

「え? 変わらない……3。ううん、何でもないの。気にしないで」

 栞は呟くように言ってから慌てた様子で両手を振った。

「さ、私はこれからやらなきゃいけないことがあるんだから。部外者の優君は出てった出てった!」

 それから、先ほど生徒会長が出て行った扉を開けると優馬の背中を押し、本当にそのまま生徒会室から追い出してしまった。

 部室に引き上げるべく、人気のない廊下をとぼとぼと歩いていた優馬ははたと思いだす。

 ──そういえば痣!

 けれどもあの忌まわしい生徒会室から一刻も早く離れたい優馬の足は、一向その歩みを止めようとはしなかった。