木暮優馬はひどく落ち着かない気分で双眼鏡をのぞいていた。
 
 もうかれこれ一週間。

 授業が終わってから日が暮れるまで池の前に張りこみ続けている。

 が、目標とする「ソレ」は姿どころか、気配すら現そうとはしなかった。

「なにやってんだろなぁ」

 弱気な呟きは、誰に届くこともないまま世界を逆さに描く池の水面へと落ちていく。

 優馬は構えていた双眼鏡から視線を離し、額にびっしりと浮かんだ汗を夏服の袖で拭い取った。
 
 枠がなくなり、心なしか広々と見えるようになった景色に向かって視線を向けるも、どうにも力が入らない。
 
 それもそのはず。
 
 視界に入ってくるのはどこまでもおだやかな光景のみ。肝心の池には波紋の一つすら立たず、超常的な何かが現れそうな気配など微塵も感じられない。
 
 神社の境内を抜けて遊歩道をさらに進んだ森の奥。優馬は直径百メートルほどの池を臨む遊歩道にいた。遊歩道は高い木々によって上空を遮られ、耳から溢れるほどの蝉時雨が昼なお暗い空間を埋め尽くしている。
 
 これも仕事のうち、部の存続のためにはやらねばならぬこと。自分に言い聞かせながら優馬は何とかモチベーションを上げようと試みてはいる。
 
 が、実際のところは低空飛行が続いていて、調査を続行するので精一杯という有り様である。
 
 優馬自身、痛いほど分かっている。
 
 こんなことはできっこない、と。
 
 それでも、やらないわけにはいかない。
 
 優馬は思わず出かかったため息を慌てて吸い込み、首を捻った。

「どう見てもただの池なんだよなあ。こう言っちゃ悪いけど」

 なおも冴えない表情でいた優馬は、ふと思い出したようにリュックを開いてA四判のパンフレットを取り出した。
 
 以前、神社の鳥居をくぐってすぐのところにある社務所でもらってきたものだ。

「龍神伝説」と明朝体で大書きされた下には細かな字で概要が書き並べられている。
「お池に棲むとされる龍神さまの姿を見た者は、願いを叶え立身出世を果たすと言われております。
昔、村のある若者が龍神さまからお告げを受け、この場所に龍神さまをお祀りするように、とのお告げをいただきました。
そこで若者は村の人々と力を合わせ、たいへん立派な社殿を建てました。
龍神様の加護を得た若者はその後大層な出世を果たし、町一番の器量よしと結ばれ幸せな一生を過ごしたということです。
これが龍神伝説の始まりであると伝えられております」と。

 優馬が池を調べているのは、他でもない龍神の姿を捉えるためである。

 龍神伝説は遠く県外にまでその名を知られており、近郊の大都市圏に活気を奪われている町にとって神社はなけなしの観光資源といえた。けれども賑わいを見せていたのも昔の話で、今やすっかり閑古鳥が鳴いている。

 それもそのはず、龍神をこの目で見たという者はまれに現れるものの信ぴょう性の薄いものばかりで、定番のホラ話くらいにしか思わない者も少なくない。その上ご利益らしいご利益を得たという話もなく、神社の中だというのに幽霊の目撃情報が後を絶たない。

 そんなわけで、一般の参拝者はごくわずかで。やってくるのはオカルトマニアばかり、という状況になってしまっている。

 最近は伝説について語る者もなくなり、「龍神が棲んでいることに『なっている』」というのがこの町に生きる者たちのあいだでの不問律となっていた。
 
 優馬はと言えば、「目に見えない何か」からは最も縁遠いところにいた。少なくとも、高校へ入学するまでは。

 町内唯一の高校に入学した直後。新歓シーズン真っ只中の校庭をふらふらしていた優馬はオカルト研究会(通称オカ研)に捕まり、二年生がいなくて存続が危ういからどうしても、と頼みこまれた挙句断り切れずに入部してしまった。
 
 それから一年経ち、三年生が卒業した今となってはたった一人の部員として否応なく部長をやる羽目となっている。
 
 ところが、優馬ほどオカ研に似合わない人間はいないと言ってよかった。なぜなら、優馬は「ヘタレ」というあだ名を付けられるくらいの極度な怖がりなのだから。
 
 要するに、目に見えないものは見えないままでいて欲しい。わざわざ自分の前に出てきれくれなくてもいい。これが優馬の偽らざる本音である。
 
 それなのに、なぜよりにもよって龍神などという「見えざるもの」を調査することになってしまったのか。

「っ~~~~~~~~~~!」

 発端となった事件を思いだし、優馬は声にならない声を上げ頭を抱えた。しかし今更どうあがいてみたところで、とんでもなく分の悪い勝負は既に否応なく始まってしまっている。


 ことの始まりは一週間ほど前の放課後。
 
 きっかけは、突如現れた一人の女子生徒だった。