妙な気分のまま病室に戻ると、廊下の前に女性が立っていた。
中に入ろうとして躊躇しているように見える。小柄な中年の女性だ。

僕が近づいたことに気づいた彼女が弾かれたようにこちらを見た。
僕の目的地が彼女の目の前のドアだと気付いたみたいだ。

「あの……渡のお友達ですか?」

どうやら、中に渡がいることは知っている様子だ。いや、『渡』と呼んだぞ。この人。

「私、渡と深空の母です」

「あ、ああ、そうなんですか」

驚いて声をあげそうになるのを飲み込む。渡の母親。家族には会わないと見込んできたというのに、早速会ってしまった。

「僕は白井といいます。今日は渡くんとお義姉さんのお見舞いに……」

「私は帰ります」

食い気味に言われ、僕は面食らう。もっと面食らったのは彼女が僕に近づいてきたことだ。
鞄から文庫本を取り出し、中表紙を破り取る。そこに走り書きされたのは携帯電話の番号。

「お願いです。渡のことをお伺いしたいんです。白井さん、どうかお時間をいただけませんか?」

「え?」

「お願いします!この番号に電話してください。私の携帯電話です。渡の話を聞かせてください」

必死の嘆願に、僕は気圧されながら頷いた。

「渡には私がいたことは黙っておいてください。どうか、ご連絡をお願いします」

丁寧に頭を下げると、渡の母親と名乗る女性は病室に立ち寄ることなく、足早に去って行ってしまった。

からりと引き戸を開けるとゆるゆると渡が顔をあげた。
頼りない表情をしていた。たった今、廊下で行われたやりとりは聞こえていない様子だ。

「渡?」

「ああ、うん。花、ありがとう」

僕は渡に言わなかった。母親が来ていたこと。

僕らは少しだけ深空の横で喋り、病室を後にした。
僕らの声は彼女の脳の奥まで響いただろうか。