第二章 雨雫 ②
 
 私が原稿を書き始めて一週間後、ようやく原稿が完成し役者さんたちが台本を読み終わった後、次は配役を決めようということになった。
「朱音(あかね)役は蒼衣でいいわね。問題は親友の碧(みどり)役を誰にするかなんだけど…」
 三年生で部長の佐山先輩が役者さんたちをグルッと見回した。ちなみに朱音は蒼衣で、碧は私自身がモデルになっている。佐山さんは碧役を誰にするか決めかねたらしく、最終的に蒼衣に向き直って、
「蒼衣が一緒にやりやすい人を選んで」
 と言った。
 蒼衣は始め戸惑っていたが、他の部員もそれが一番いいという感じで頷いていたので、蒼衣は「じゃあ…」と言って私の方をちらっと見た。私は一瞬蒼衣が「美桜、お願い」と言い出さないかと思ってドキッとしたが、蒼衣は部長の方に向き直って彼女の手をとった。
「碧役は部長にお願いします」
「え、あたし?…まあいいわ。一緒に頑張りましょう」
 蒼衣の判断に他の部員たちも納得したようで、ぱらぱらとした拍手が湧きおこった。それから脇役の配役も決め終わったところで、その日のミーティングは終了した。
 翌日から蒼衣や佐山部長が中心となって、文化祭での舞台の練習が本格的に始まった。練習は部が借りている教室で行ったが、たまに体育館のステージを貸してもらえることになっていた。
私は役者ではないが、照明の当て方や役者の配置など細かい指示をするために毎日の練習に付き添った。私は役者をしたことがないので、演技に対してとやかく言うことはできないが、毎日練習に出ていると蒼衣の演技には目を見張るものがあることぐらいは分かった。
教室中に響き渡る声。
時にはしなやかな、また時にはダイナミックな手足の動き。
喜び、悲しみ、怒りといった繊細な表情。
蒼衣の声が、手が、足が、見ている側が吸い込まれそうなほどにものをいう瞳が、私の五感を刺激し、どうしようもなく物語の世界に引き込まれていく。
彼女の演技は練習を重ねるごとに洗練されてゆき、周りの皆も徐々に上達していった。
そうして季節が巡り木々の葉が色づき始めた頃、いよいよ文化祭が二週間後に迫っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ~」
 今日も一日の練習が終わり、部員の皆が帰り支度を始めていた。
「美桜の碧、なかなか良かったよ」
「え、あ、ありがとう」
 脇役をやっている友達にそう言われて、私はほっと胸を撫でおろす。なぜ彼女が「美桜の碧」と言ったのかというと、今日は碧役の部長が風邪で学校を休んでおり、私が代役を頼まれたからだ。私は役者なんてやったことがなかったから、代役を頼まれた時は上手くできるかとても不安だったけれど、なんとかやり終えることができたようだ。
「それじゃあ、また明日頑張りましょう」
「「はい」」
 副部長の富岡先輩の号令で今日の部活がお開きとなった。
「帰ろ、蒼衣」
「うん」
 部員たちがぱらぱらと帰り出し、私も蒼衣と一緒に部室を出ようとした時だった。
「大変大変!」
 突然部室の扉がバッと開いて、今まさに扉に手をかけようとした私はびっくりしてのけぞった。
 扉の前にいたのは一番初めに部室を出た二年生の多田さんだった。彼女はここまで走って戻ってきたようで、肩を動かしてゼエゼエ息をしており、よく見ると顔は蒼白だった。
「ど、どうしたの多田さん」
 私の隣にいた蒼衣が、彼女に向かって恐る恐るという感じで訊く。
「ぶ、部長が家の階段から落ちて足を骨折したって……!」
「え、部長が!?」
「多田さん、それ本当に?」
「本当よ!さっき職員室の前を通ったら偶然顧問に会って…それで教えてくれたの…」
「そんな……!」
 部室に残っていた部員たちが部長の怪我の知らせを聞いて愕然としている。副部長の富岡先輩も信じられない、というふうに固まっていた。そのうちはっと我に返ったように口を開いた。
「本番まであと二週間しかないじゃない……。部長は出られないわ…」
 富岡先輩がそう言った時、皆の頭の中に同じ不安がよぎった。そしてその不安を最初に声に出したのは、部長の不幸を告げた多田さんだった。
「碧役の、代役立てないと…!」
 多田先輩の言葉にざわめいていた部室が一気に静まり返る。
 そう、私たちの今一番の問題は部長の代わりに誰が碧役をやるかだ。
 見ると、皆お互いの顔をちらちら見合って碧役の適任者を探している。でもよくよく観察すると、できれば代役なんてしたくない、というふうに伏し目がちな表情で訴えている人がほとんどだった。
 そうして「誰も何も言わず、誰かに碧役を押し付けようとしている」気まずい空気が漂い始めた時、私の隣でずっと押し黙っていた蒼衣がすうっと息を吸う音が聞こえた。
「私、碧役は美桜がやるのが一番だと思う」
「え……ちょ、ちょっと待って蒼衣」
 あまりにも唐突な蒼衣の言葉に驚いた私は動揺しまくりの顔を蒼衣の方に向けて必死に「美桜の碧役」をくい止めようとしたが、慌てる私とは裏腹に蒼衣は真っ直ぐな瞳で私を見つめていた。彼女の綺麗な瞳に射すくめられた私は、「あ…う…」と情けない声しか出せずにいた。
「美桜は今回の脚本を書いた人だから細かい設定とか、他の人よりちゃんと頭に入ってる。だから残り二週間しかなくても、きっと台詞も動きも覚えられるわ」
「それもそうね……。高木さん、どうかしら。碧役、やってもらえる?」 
 碧役を誰にするかで行き詰っていた場の雰囲気を好転させようとした蒼衣の発言に、副部長が納得して私に訊いた。
「え、わ、私があと二週間で碧役を…?」
「ええ。私も、山里さんの言うように高木さんが適任だと思うの。他の部員も精一杯サポートするから、お願い」
 最後の方はもう富岡先輩の「お願い」という頼みに負けて頷くしかなかった。
「…分かりました。碧役、頑張ります」