金木犀のエチュード──あなたしか見えない

彼女が舞台袖に引き上げても歓声と拍手は鳴り止まなかった。

「すごい歓声ね」

志津子がぞっと耳打ちした。

「そうね。詩月くん、大丈夫かしら」

詩月くんは街頭演奏を始めた頃、緊張で震え泣きながら演奏していたーーお婆ちゃまの日記に書いてあった。


岩舘さんも、その頃の様子が今では信じられないくらい痛々しかったと話していた。

彼女の演奏の歓声が冷めないまま、詩月くんは舞台中央に立った。

静かにゆっくりと1礼し、胸に手を当て、深呼吸した。

詩月くんは身を乗り出し、最前列から最後列、右端から左端へ、客席の全てをぐるりと見渡す。

詩月くんの視線が客席の左端、非常口を表示したランプの下で止まった。

強張り、今にも泣き出しそうにしていた詩月くんの表情が穏やかな笑みに変わったかと思うと、サッとヴァイオリンを構える。