「どこに行っていた、皐月」
ふいに皐月を呼んだのは、低く、機嫌の悪い男の声だ。
その声に立ち止まり、皐月は目をすっと細める。
御簾の僅かな隙間から溢れる月明かり。
蒼白く照らされたそこは、皐月の帰るべき場所。
天界の片隅に存在し、小さな祭壇と寝泊まりできる部屋が二、三ヶ所ある木造建ての小さな社だ。
その祭壇のある本殿の前を通っていた皐月は、声の聞こえたそちらをちらりと見た。
ばさばさと纏まりのない、漆黒の少し色褪せた長髪。
曇って本来の輝きを失った、金色の瞳。
顔には少しの苛立ちの見える、見た目中年の男がいた。
彼が皐月の父・繧霞だ。
皐月はふいに、顔を繧霞から背けた。
あぁ、またこの言葉なのか。
もはや、聞き飽きたと言っていい。
一言目には必ず、どこへ行ったのかという言葉を突きつけるのだ。
「貴方には関係ない」
答える皐月の言葉には、怒りや悲しみなどの感情は一切ない。
波風の立たない静かな水面のように平淡。
恐ろしいほど無心だった。
「皐月」
そんな声を聞き、繧霞は褪せた黒髪を揺らしながら皐月を振り返った。
顔を背けている皐月。
外から流れてくる風に黒髪と着物の袂を揺らしながら、これ以上関わるなというような雰囲気を纏わせている。
そんな皐月の背中を、繧霞は横目でぎろりと睨んだ。
「この社から一歩も出るなと言ったのを忘れたのか?」
繧霞の怒りの混じる言葉に苛立ちを覚えた皐月は、思わず拳を握りしめる。
そして、勢いよく振り返って、繧霞を睨み返した。
「私はもう子供ではない。
貴方に指図される必要はないだろう」
「たかが百年かそこらの若輩の神が偉そうに……。
生意気を言うでない」
神は心臓を貫かれない限り、永遠という時を生きる。
人からすれば、気の遠くなるような時間だろう。
繧霞もまた、千年という遥かな時を生きているのだ。
だからなのだろうか。
神は、生きる者全てから敬われる。
そして、遥かなる時の流れを持ち、この世を支えるだけの強い力を有している。
それは神の威厳であり、存在だ。
けれども。
皐月はそれが一番嫌いだった。
今宵出会った、巫女姫の葵。
葵は、小さな田舎村を守る為に魂を捧げている。
そして、そこに暮らす者達も、当たり前だという認識だ。
やはりそれは。
捧げているのが、神であるから。
村が信仰する、偉大なる神であるから疑わない。
信仰する者達は、神の言う言葉は全て信じ、実行する。
そこに、彼ら自身の意志はない。
皐月の認識で言うのなら、きっと。
あの村に住む人々は、繧霞にいいように操られているのだ。