ありがたいことに、空を覆う木々と鳥居のおかげで、参道はひんやりと涼しい。山登りという運動に見合う涼しさではない気がするが、それでも炎天下の中で上るより大分マシだ。

 汗が出るしだるいし辛いが、できるだけそれを意識しないように、努めて無意識を保ってみる。マラソンをするときのように、規則的な呼吸も忘れない。静かな参道に、僕の呼吸音だけが小さく響く。鳥居の鮮やかな朱色が、伏せた目の端をちらちらと通り過ぎていく。

 まるで異世界に通じる道みたいだな。
 汗を拭いながら、僕は思った。

 もちろん、神社という聖なる場所へお参りするための道なのだ。そういう神聖な気持ちになるように、計算されてつくられてるんだろうけど、とひねくれることも忘れない。

 そろそろ半分は過ぎただろうか、というところで足を止める。ポカリ節約のためにCCレモンを口に含み、ふと後ろを振り返る。

 すると、瞬間、ぐらりとめまいのような感覚に襲われた。連なる鳥居と石段が相まって、合わせ鏡の中にいるような気分になる。その光景に少し怯えた僕は、再び頂上目指して歩き始めた。

 千本鳥居が本当に千本あるのか、石段は何段あるのか、数えればよかったな、そう思う余裕ができたのは、やっと鳥居と石段が途切れ、再び青い空が見えたときだった。

 大急ぎで太陽の下に出て、そこから参道を振り返る。通り抜けてしまうと、朱色に囲まれた参道はどこか不気味に見えた。

 けれど、帰りもあそこを通らなければならない。僕は境内をキョロキョロと見回し、お守り売り場を探した。すると、「授与所」とそう書かれた売り場は、上がり口のすぐ右手に見えた。

 「授与所」、そう書いてあるのは、きっと建前上、神さまの加護のあるものをお金で売買するということがいけないということなんだろう。

 バカみたいだ、僕はそう思いながら、「授与所」に近づいた。どうやら、そこには人がいない。だというのに、お守りやグッズが無防備に並んでいる。人を呼ぶ前に品定めをしようと、僕はそれを覗き込んだ。

 勾玉に、干支の鈴に、キャラクターもののお守り。けど、そのキャラものには「交通安全」の刺繍がしてあり、母さんに頼まれたものじゃない。

「あ、これか……」

 そこに、「喜常守」という狐の描かれたお守りを発見し、僕はつぶやいた。「喜常」はどうやら「きつね」と読ませるらしい。母さんの言うとおり、神社名も入っているし、これで決まりだ。

 と、その値段を見て、僕は思わず頭を抱えた。
 『喜常守……初穂料八百円』。そこにはそう記されている。

「マジかよ……」

 ズボンのポケットを探る。が、そこにある金額は確かめなくてもわかっている。千円で百五十円のペットボトルを二本買った残りはいくらでしょう? 小学生でもわかる簡単な算数だ。

「あああ……」

 がっくりとその場にしゃがみ込む。
 百円だ。死ぬような思いをしてここまできたというのに、たった百円、お金が足りない。

 CCレモンだ。
 僕は八つ当たりのように、その黄色い液体を一気に飲み干した。

 温くなった炭酸は、冷えてるときよりも甘ったるい。飲む前よりもいっそう喉が渇く。くそ、この役に立たない液体のせいで、ここまでの苦労が水の泡だ。それとも――。

 僕はそっと境内を見渡した。

 いくら信心があったとしても、真夏の真っ昼間にお参りするほどのものではないらしい。やはりここにも人影はなく、授与所の人も昼休みをとっているのか、戻ってくる気配はない。

 誰もいないんだから、七百円だけ置いて持って行ってしまおうか?
 邪な考えが胸をよぎる。

 いやいや、何もお守りを万引きしようってんじゃない。また明日、百円を持って出直して、こっそりまた置いておけばいいんじゃないか?

 それに、だ。「授与所」だの「初穂料」だのと言って、建前上でもお金のやりとりを嫌っているのは神社のほうなのだ。百円くらい足りなくたって、そこは僕の「気持ち」を置いていくということで、どうにか許されないだろうか。大体、お守りなんて原価のかからないインチキビジネスなんだからさ――。

 ――ま、でもダメだよな。

 僕は小銭を再びポケットに突っ込むと、気合いを入れて立ち上がった。

 向かう先は、本殿。ここまで来たのだから、神さまに挨拶をしなきゃいけない……ってのは建前で、目当ては賽銭箱だった。

 別に手を突っ込んでお金を盗もうってわけじゃない。そうじゃなくて……賽銭箱に入らずに落ちた小銭が百円くらい転がってないかなあ、というやはり邪な目的のためだ。

 八百円のお守りに、七百円を置いていくのはダメだ。

 というより、ぶっちゃけ、絶対に見つからないって保証があるのなら、僕もやってしまっただろう。しかし、そんな保証はないし、そうするともし見つかったときの言い訳が立たない。こんなことで警察を呼ばれて、学校に知られでもしたら最悪だ。こんなことで、平凡人生から転落人生へランクダウンなんかしたくない。

 けど、僕の考えでは、賽銭箱の傍でも何でも、落ちている百円を足してお守りを買うのはセーフだった。だって落ちてるんだったら、誰のものでもないのと同じだし、落とし主が見つかるわけもない。

 本殿の前で、もう一度周りを確認する。やはり、どこにも人影はない。

「百円、百円……」

 僕は目を皿にして目当ての硬貨を探した。しん、とした境内に、蝉の声が響いている。額から汗がしたたり落ちる。しかし、賽銭箱の周辺にはチリ一つ落ちていない。

 はあ、僕のついたため息と同時に、涼しい風が境内を吹き抜けた。サラサラサラ、乾いた音が頭上で聞こえ、ひらり、何か紙のようなものが目の前に落ちてくる。

「……何だ?」

 見上げると、そこには大きな竹があり、風に笹飾りが揺れていた。

「七夕か……」

 僕はつぶやいて、それを眺めた。

 笹の葉が揺れるたび、あの綺麗なサラサラという音がする。色紙を切っただけの短冊が、くるくると楽しげに揺れる。少し視線を落とすと『ご自由にお書き下さい』、そう書かれた場所に、台とボールペンが置かれている。けれど、肝心の短冊はもうなくなってしまったようだ。

 何を思うでもなく、しばらくぼうっとそれを見た僕は、先ほど地面に落ちてきた短冊を拾い上げた。

 青い色紙を切った、青い短冊。いや、これは澄んだ「青」というよりは、翳りのある「蒼」とでも表すべき色だろう。

 そんなどうでもいいことを考えながら、その蒼い短冊を裏返す。どうやら笹から外れてしまったらしいこれには、誰かの願い事が記されている。

 どうせ家族の健康とか、受験に受かりますようにとか、そんなものだろう。期待もせずにその願いを読んだ僕は、ふふっと思わず吹き出した。


『大人になるまで、生きていられますように』


 女性の字だろうか、丁寧な筆致で書かれたそれは、とてもじゃないが「子供」の字ではない。もちろん、これが代筆だという可能性もあるが、だったら「○○が大人になるまで生きられますように」、そう書くはずだろう。

 これは誰かの嘘に違いない――根性のひねくれ曲がった僕は、瞬時にそう断定した。

 だって、これはいかにも思わせぶりな文面だ。大人になるまで生きられない可哀想な私という、悲劇のヒロインになりきっている。

 それが事実無根の「設定」なのか、それともこれを書いた誰かが、実際に何らかの持病を抱えているのかはわからない。

 けれど、神社の笹飾りなんて人目につく場所に書くのは、アピール過剰だ。精神が不安定なメンヘラだ。もし本当に持病があったとしても、どうせ軽い喘息とか、命に関わりないものに決まってる。

 短冊を通して、それを書いた人間を睨むように、僕は目を細めた。

 ドラマや映画のような「不治の病」にかかる人間が僕の身の回りにいる確率はどれくらいだろう? 考えたことはないが、それこそ奇跡のような確率――僕が一億人に一人の才能を持っているくらい、あり得ない確率だろう。

 そんな人間がいるはずない。だから、これは誰かの嘘だ。
 百円玉を探していたことも忘れ、僕はその短冊を手の中で握りつぶそうとした。

 バカバカしい嘘。誰かのイタズラ。そう思っているというのに、僕の胸には、自分でもコントロールできないほどのイライラが募っていた。

 一体なぜか。そんなことは問いにしなくてもわかる。これは、じいちゃんに勧められた絵画教室で、藝大生の絵を見たときと同じイライラだった。

 つまり、自分にはないものを持っている人間がいる、そう知ったときの苛立ちだ。

 僕はどんなことでもいい、一億人に一人の何かになりたかった。僕には絵画の才能がなかった。そして、この嘘かもしれない短冊の願いの示唆するもの――不治の病でもなかった。

 何もない僕にとっては、この「不治の病」さえも「人生を特別にする才能」に思えたのだ。

 もし、この短冊が本物なら。
 そう思って、僕はイライラした。

 そうだよ、そんなに死にたくないなら、僕の寿命をお前にやるよ。だから、一億人に一人の、お前の不治の病を僕にくれ。そうしたら、お前はせいぜい僕の平凡な人生を、退屈しながら生きればいい。

 交換した後、一億人に一人の「特別」に気づいて、僕に泣きすがってもダメだ。僕はこの「特別」な人生を手放すつもりはない。死ぬことがわかっているからこそ輝く人生を、僕は太く短く駆け抜ける。こんなはずじゃなかった、と嘆くお前を横目で見ながら。

 そんなことを考えていると、いつのまにか目に涙がにじんでいた。僕は他人のことのようにそれに驚き、自分がどんなに「特別」を求めているかということを知った。

 不治の病。僕たちを待ち受けている暗い未来から一抜けして、誰よりも先に消えてしまうことへの喜び。

「死ぬ……か」

 正直、それはいままでなかった発想だった。けど、それもいいかもしれない。どうせ、僕には才能がない。平凡な人生に耐えるだけの根性もない。

 だったら、いっそのこと死んでしまえばいい。この短冊に書かれた願いのように、「ああ、僕ももっと生きていたかった」だなんて言いながら死んでいきたい。生きる希望を持ちながらも死という運命に抗えない僕。ドラマみたいな筋書きが最高じゃないか。

 僕は二本のペットボトルを地面に置き、台のボールペンをとると、蒼い短冊の余白に「H・T」と、自分のイニシャルを書き足した。丁寧に書いたが、先の文面と比べると、少々ぎこちなく見える。

 それでも、書き上げた僕は満足した。気分を盛り上げるため、本当は全部自分で書きたかったが、新しい短冊はないのだ。仕方がない。誰かの嘘の再利用で十分だ。

 平凡な人生に飽きる前に、自分で死を選ぶ。その新しい思いつきに、僕は夢中だった。
 「死ぬ」ことで、僕は「特別」になる。これは一発逆転の素晴らしいアイディアだ。

 死ぬのはそう、高校卒業の朝にしよう。そうすれば、みんなの記憶にも残るし、それにまだ一年半ある高校生活を思い切り楽しめる。進路も何も関係ない、充実した日々を過ごせる。

 僕は、できあがった僕の短冊を笹飾りにつけようとした。低い場所は嫌だから、できるだけ高い場所に――竹のてっぺんにつけようと本殿の階段を賽銭箱の高さまで上る。つま先立ちで、てっぺんの葉を掴む。かさり、限界まで手を伸ばすと、やっと乾いた感触が指に触れた。そのときだった。

「……そこ、土足禁止ですよ」

 涼やかな声がした。
 誰だ?