「ちょっと、あんた、暇なら頼まれてくれん?」

 そう母親に言われたのは、うだるような夏休みの午後、部屋で漫画を読んでいたときだった。

 島根県の内陸部である、ここ津和野の夏は異常に暑い。もちろん、記録上は日本一の暑さになどならないが、それでも暑いことには暑い。

 それは、僕の部屋にクーラーがついていないことも一因だろう。というより、この家でクーラーのある場所は一階のじいちゃんの部屋だけで、そこへ入っていいのは、唯一、勉強をするときだけだと決まっている。

 ということは、裏を返せば、暑いのを我慢しさえすれば部屋で好きなことをしていいということだ、と勝手に解釈した僕は、毎日漫画を読み、ゲームをして遊んでいた。大体、いくらクーラーが涼しくても説教臭いじいちゃんの傍には寄りたくないし、暑さはその代償だと思えば我慢できる。

「ちょっと、返事くらいしんさいよ」

 苛立ったように母さんが言った。

 農協で働いている母さんは、昼休みになると僕とじいちゃんの食事をつくりに家まで戻ってくる。いまはまた、仕事に戻らないといけない時間なので、カリカリしているのだろう。

「なに、そがぁ叫ばんでも聞こえとうよ」

 方言丸出しで僕がそう言い返すと、母さんはさらに苛立ったようだった。乱暴に千円札を机に置くと、「これでお守り買うてきて」と言う。

「お守りって何さ」

 面倒くさいという空気を全開にして僕が聞くと、

「ヒヨリちゃん、今年、受験じゃろ。ユズちゃんのときも送ったんじゃけん、送らないわけにいかんでねえ」

 ヒヨリとユズは、山口に住んでいる従姉妹だ。隣県とは言え、津和野はほとんど島根と山口の境だ。だから小さい頃は行き来があったが、中学になった頃からとんと交流はない。もちろん、中学生にもなって一緒に遊びたいということもないから、それはそれで構わないのだが……。

「太皷谷のお守り、送ったんよ」

「千本鳥居の?」

 僕は顔をしかめた。

「あそこ、学業の神さまやった?」
「さあ、わからんけど」

「わからんってどういうこと?」
「ええんよ、有名なとこなんじゃけん」

 我が母親ながら、とんでもなく適当なことを言う。けれど、それでヒヨリのおばさんも満足してるんだろうから、それはそれでいいんだろうけど。

「わかったよ」

 千円渡されたのだから、お釣りは駄賃として受け取っていいのだろう。僕は勝手に解釈すると、読みかけの漫画に戻る。と、その漫画を母さんの手が取り上げた。

「いまから行きよって」
「え? なんでいま?」

 時計を見ると、そろそろ一時。一番暑い時間帯だ。

「夕方で良くない? それか、明日」
「だめよ、あんた絶対に忘れるんじゃけん。いまから行きよって。そしたら明日、お歳暮と一緒に送れるけぇ」
「ええ、マジでいまから……?」

 僕は精一杯嫌な顔をする。すると、今度は脅すように母さんが言った。

「あんた、そういうこと言うなら、ごろごろしてないで塾の講習でも申し込みんさい。颯太くんも行っとるんじゃろ? まったく、高校二年生にもなって何にもしないんじゃどうしようもない――」
「わかった、わかった。行くから。行かせて頂きます!」

 あっさりと白旗を揚げると、僕は母さんの脇をすり抜けて、部屋を飛び出した。

「ちゃんと神社の名前入りのやつにしんさいよ!」

 母さんの声を背中に、千円札をポケットに押し込み、自転車に飛び乗る。ギラギラと照りつける太陽の下、決死の覚悟でこぎ出す。

「ったく、自分が忘れてたくせに……」

 予定もない自分を棚に上げ、つぶやく。神社までは自転車で二十分。この炎天下ではそこそこきつい距離ではある。軟弱な僕の目は、すぐに通り沿いの自販機を捉えた。

「……熱中症対策しないとな」

 自分を正当化するようにつぶやくと、ポケットに入れたばかりの千円札を突っ込む。CCレモンのボタンを押す。出てきた黄色いボトルキャップをひねり、一気に半分ほど飲み干す。そこで、甘い炭酸水は喉の渇きには不適だと気づく。

「しゃーないなあ……」

 残りは八百五十円。

 お守りっていくらだろう? 少し考えて、多分五百円くらいだろうと見当をつけた僕は、小銭を自販機に入れ、もう一本、今度はポカリスエットのボタンを押した。

 ガコン、冷たいポカリが転がり出てくる。忘れないように、お釣りを先にポケットにしまってから、今度は白いキャップをひねる。薄甘く、汗をかいた体に染みる味。

「よし、行くか」

 家から二百メートルのところで止まっていた僕は、ようやく神社に向けて自転車を走らせた。

 陽炎の立つ道には、お昼という時間もあってだろうか、走っている車はほとんどいない。もちろん、自転車や徒歩のバカなんて皆無だ。大体、車社会の田舎では、自転車なんて学生だけ、歩いているのは畑に行くじいちゃんばあちゃんだけだ。

 けど、夏休みに学生はいないし、じいちゃんばあちゃんは暑い昼の間は外に出ない。涼しい屋内で昼寝でもして、太陽が陰った夕方頃にまた畑に出てくる。だから、こんな時間にわざわざ自転車を漕ぐ僕は、まるっきりのバカだ。

「あー、母さんの言うことなんか無視して、絶対夕方行くからって言えばよかった」

 早くも自転車をふらつかせながら、つぶやく。それとも、このままどこか涼しい場所にでも行こうか。……まあ、そんな場所、ここらへんにはないんだけど。

 塾の自習室は涼しいんだろうか。ふとそんなことを考える。颯太が行き始めた駅前の塾。あいつ、塾に行くなんて全然言ってなかったのに、夏休み入ったら突然、だもんな。それどころか、

『お前、行かないの?』

 って、うるせえよ。僕がそういうところ嫌いだって知ってるくせに。ってか、あいつもこないだまでは、「学校行ってるのに塾行くなんて考えらんねえ」って言ってたのに。

 それなのに、どうして塾に行こうなんて考えたんだろう。受験勉強は高二の夏から、って言い出した担任のせいか? それとも、親にうるさく言われたせい? まさか、あいつが自分から行くってことはないだろうけど――。

 そう安易に結論づけてから、僕は不安になった。

 みんな、将来のことを考えている。頭のいいやつは当たり前のように大学進学を、美容師になりたいとかアニメーターになりたいとか、そういうやつらは専門学校を、それから、家が貧乏で勉強もできないやつの中には、高卒で就職するってやつもいる。

 夏休み前に配られた進路についてのアンケートを前に、クラスメイトたちは楽しそうにそんな会話をしていた。そして、これ、という答えをアンケートに書き込んでいた。

 なぜ、こいつらはこんなに楽しそうにしてるんだろう、僕にはそれがよくわからなかった。

 大人になるのが楽しみ? 将来を考えるのが楽しい? どう考えれば、そんなお気楽なことが言えるのだろう。

 テレビニュースじゃ、雇用がどうのブラック企業がどうのって話題に尽きないし、年収が少なすぎて結婚もできない、子供も持てない、そんな話が、特に興味がなくても耳に入ってくるような時代だ。

 老人ばかりが増え、子供が減って、税金は上がる一方で、それなのに収入は増えなくてって、そんな時代だ。みんなそう言ってる。

 はっきり言って、こんな時代に生きなきゃいけない僕は、不幸以外の何物でもない。

 もし、生きる時代が選べるのなら、こんな時代を誰が選ぶ? みんな、うちのじいちゃんがよく言うような、「一般人でも札ビラ切ってたバブルの頃」を選ぶに決まってる。

 僕はため息をつき、Tシャツの袖で汗を拭った。ああ、僕は不幸だ。こんな時代に生まれた僕たちは、それだけで不幸の極みにいるようなもんだ。そりゃ時代に関係なく、いつでも一発逆転できるような「一億人に一人の才能」を持った人なら、話は別なんだろうけど……。

 視界の向こうに巨大な鳥居を見つけたところで、僕は一旦自転車を止め、ポカリを喉に流し込んだ。

 あの巨大鳥居をくぐったところから、太皷谷稲成神社の参道は始まる。僕は再び愚直に自転車をこぎ始める。

 ということは、目的地もすぐそこだと思いがちだが、ところがその道のりはそんなに甘いもんじゃない。

 多くの寺社仏閣がそうであるように、この太皷谷稲成神社も例外ではなく、山の頂に建っている。つまり、山を登ることが必須であるわけで――。

「うわ……ヤバいな」

 思わず、ため息交じりのつぶやきが漏れる。

 曇りが多い島根の空は、しかし今日は濃い青に晴れている。その青を背景に、夏山がそびえ立っている。

 そして、夏山の濃い緑色を縫うように、その頂へ向かう朱色の道。その千本鳥居の続く先が、島根では出雲大社の次に有名だと言われている――同時に僕の行き先でもある――太皷谷稲成神社である。

「あれを上るのかよ……」

 近所の名所ほど、足が遠のく場所はない。僕は一度か二度、親に連れられて本殿に行ったことはあるが、あの有名な千本鳥居をくぐって、本殿まで行ったことはなかった。

 というのも、千本鳥居の参道はオプションのようなもので、実は、本殿に行くだけなら車で上まで上がれるのだ。

 だから家族で訪れたときも、わざわざ山登りなんかしたくないと父さんが言い出し、鳥居をくぐることはしなかったのだ。

 くぐりたければ、神社は近所だ。勝手に行けばいいだろう、と思ったのだろう。面倒くさがりな父さんが考えそうなことだ。

 それにしても、上りたくもないのに上るはめになるとは――僕は千本鳥居の下に自転車を止めると、スポドリとレモンソーダを手に参道を見上げた。

 この鳥居、本当に千本あるんだろうか。それから、この石段。まさか、鳥居が千本だからって、石段も千段あるんじゃなかろうな。

 曲がりくねった参道は先が見えない。そのため、どれだけの長さがあるのかも見当がつかない。こりゃ、飲み物二本で正解だったぞ、僕は自分の間違いに感謝しながら、足を踏み出した。