生温い雨が降っていた。夏に似つかわしくない暗い雲が空を覆い、あたりは雨音で溢れかえっている。濡れた石段は滑りやすく、まとわりつく湿気が重たい体をますます重くする。

 傘も差さずに、ただ己の身一つで、僕は参道を上っていた。参道の先に彼女はいない、そんなことはわかっているというのに、わざわざこうして雨の中歩いているのは、精一杯アピールをしたいからだった。

 雨に濡れるのも構わず歩く、うちひしがれた僕。自己嫌悪に潰されそうになりながら、さまよう僕。後悔ばかりを胸に、いまにも死んでしまいそうな僕。

 どうだ、可哀想だろう? こんなに不幸な人間はほかにはいない。辛い人間はいない。危うい人間はいない。だから、この姿を見かける誰かがいるなら、その誰かは僕を助けてくれて当然だ、優しくしてくれて当然だ、そう思いながら。

 僕の中心は、当然ながら僕で、決してほかの誰かではあり得なかった。だから僕は、僕が、僕は、僕を、僕に、僕へ、と常に自分がどう見られているのかだけを気にして、これまで生きてきた。

 そして、だからこそ、僕は自分に特別な才能がないことが許せなかった。僕にとって特別な僕が平凡であるという事実は受け入れがたいもので、それは情けないことにいまも同じだった。

 なぜなら、僕はいまも「僕に降るこの雨が冬の冷たい雨だったらもっと悲壮感を煽るのに」だなんて考えていて、雨のほかにも可哀想な僕の演出をしてくれる小道具がないかと、血眼で探しているのだった。

 思えば、せこい手でゲームに勝った彼女に抗議せず、そのまま「お願い」を聞いたのも、それが僕を特別に見せてくれると思ったからだった。

 行きたくもない美術館に、お願いされて嫌々行く僕。陽気な彼女に振り回される僕。本当は何にもないのに、恋人同士に見られてしまう僕。

 僕、僕、僕、僕、全部僕のためだ。その一つだって、彼女のためだなんて思ったこともない。そう、あのとき彼女の手を掴んで走り出したときすら、僕は彼女のことなんか微塵も考えていなかったのだ――

      *

 一緒に電車に乗り、美術館へ行ったあの日、僕は非情な事実を知った。

『どうしても見たい絵があるんです』

 そう彼女が言っていたのは、「月森寛人」の絵。僕が名前をもらった叔父さんの絵のことだった。

 彼女はなぜか「月森寛人」の絵と名前を知っていて、さらには同姓同名の僕を叔父さんと勘違いしていた。

 実際につながりが合ったとはいえ、同姓同名の画家を僕と結びつけるなんて、どうかしているのだが、そこには彼女なりの理由があったのだろう。

 とにかく、彼女は僕を「画家の月森寛人」だと思っていた。だからこそ、美術館に行きたい、そう言ったのだ。

 いや、きっとそれだけではない。

 僕に声をかけたのは偶然だとしても、その後何かと話しかけてきたのには、そういう事情があったのだ。

 僕は彼女にとって「あの絵を描いた才能ある画家」だった。しかも、不治の病で余命が二年というおまけ付きだ。近づきたい、そう思うのは自然なことだろう。そう、とても自然な……。

 けれど、あの日、彼女は気づいてしまった。「才能ある画家、月森寛人」は何十年も前に死んでしまったことを。隣にいるこの僕が、何の才能もない、ただの平凡な高校生であることを。

 彼女はショックのあまり泣いていた。その涙に僕の心もえぐられた。勘違いしたのは彼女のほうだってのに、どうして僕が傷つかなければいけないのか、そんな怒りもこみ上げた。けれど、それはすぐに霧散してしまった。「才能がない僕」に対する彼女の純粋な失望が、僕の怒りをしぼませたのだ。

 それから僕たちは無言で館内を回ったが、絵なんて一枚も目に入らなかった。先を行く彼女の背中ばかりを見つめ、僕は苦しんでいた。

 初めは僕の嘘だった。風に落ちてしまった短冊の願い事に触発された、バカみたいな嘘だった。けど、彼女はそれを信じてくれて、だからこそ僕のことを気にするのだと思っていた。彼女も僕と同じように、彼女自身のことが一番大切で、「不治の病の僕」をアクセサリーにするために、近づいてきたのだと思っていた。

 けど、それは少し違った。

 僕は彼女の心をも動かす絵を描いた、「才能ある画家」だった。

 だから、彼女は僕を気にかけたのだ。もしかしたら、それだけで好きになってくれていたのかもしれない。

 でも、そう気づいたときにはもうすべては終わっていた。化けの皮の剥がれた僕は黙って彼女の後を歩き、惨めな気分を味わうだけだった。

 そうしながら、別に彼女を好きなわけじゃない、だなんて嘯いた自分を殴りたくなった。

 思えば、ずっと前から僕は彼女のことを好きだった。だというのに、やっと素直になれたときには、彼女の心が離れているなんて皮肉だ。

『じいちゃんちに、叔父さんのスケッチが残ってるかも』

 才能も余命も嘘だらけの僕は、せめて歓心を買いたくて卑屈に持ちかけた。言いながら、自分でも最低だなと思った。けど、自分のカードなんて持ち合わせてない僕は、他人のそれを使うしかなかった。

 しかし、そんな僕の本心を見抜いたのか、彼女は無言でうなずいただけだった。辛さと恥ずかしさで、僕はくちびるを噛んだ。『才能があって早死にするなんて完璧だ』、そう言うのがやっとで、いたたまれず、視線を逸らす。

 そのときだった。起死回生のチャンスが見えたのは。反対側のテーブルに座った、一人の男。その見覚えのある男の視線が、はっきりと彼女を捉えているのが見えたのだ。

 あれは、行きのバスで会った男じゃないか?

 僕は、はっとした。そのときのことを思い出す。バスの中で、突然彼女が驚いたような顔をして、その視線の先にいたのがこの男だった。ということは……あいつはストーカーか何かか?

 どっと手に汗が滲んだ。できるだろうか――咄嗟に立てた、計画ともいえない計画を見直す。大丈夫だ。うん、きっとやれる。

 その男がトイレに立つのを見計らって、僕は立ち上がった。慌てる彼女に、
『あの男、君をつけてる』
 そう言うと、その手を掴んで走り出す。彼女の手はとても冷たく、いつか冷え性だと笑っていたことを思い出させた。

 けど、それにしたって冷たすぎる。それなのに、さっきもアイスティーなんかを頼んで。もっと温かいものを飲んだ方がいいんじゃないだろうか――。

 僕は、そんなどうでもいいことを考えていたと思う。だから、彼女の様子に気づくこともなく、その手がふっと離れてしまった瞬間さえ、ただ転んだだけだろうと思っていた。慌てて振り返り、その死人のように青い顔を見るまでは。

『藤川さん!』

 僕は思わず叫んだ。

 地面に力なく投げ出された細い四肢。青い顔に浮かぶ苦悶の表情。尋常じゃないほどの汗。
 何だ、これは? 一体何が起こったんだ? どうして彼女は動かない?

 次々に疑問が浮かび上がり、それが解けないまま、また新しい疑問が浮かび上がる。どうしていいのかわからずにいると、

『……唯ちゃん!』

 あのストーカーが驚いた様子で駆けつける。携帯電話を取りだし、どこかへ電話をかける。

『心臓に持病があって……かかりつけもあって……はい、お願いします』

 男は電話を終えると、僕を見上げた。その目に浮かんでいるのは、僕に対する怒りだろうか。それとも……?

 またしても自分のことばかり考えている僕に、彼は感情を抑えたような声で言った。

『いまから救急車が来るけど、君も乗っていく?』

 男が誰かも、彼女がどんな状態なのかもわからないまま、僕はその問いに思わずうなずいていた――