果たして、翌日の午後二時過ぎ。
 息を切らせて石段を上がりきった僕の前に、彼女はひょっこりと現れた。

「こんにちは」

 にこっと笑みを浮かべて挨拶をする。どうも、僕は口の中でもごもごと返すと、ペットボトルのお茶を飲み干した。中身は家の麦茶。月のお小遣いは五千円。こうも毎日、自販機で散財するわけにはいかない。

「今日も暑いですね」

 機嫌を伺うように、彼女が言う。そうだね、僕はそう返しながら、日陰を求め、本殿のほうへ歩いて行く。すると、

「あ、先に手を清めないと……」

 彼女はつぶやくように言い、手水場へ足を向ける。白い日傘の後ろ姿を、僕はため息をついて見つめた。

 まったく、「設定」が細かいことだ――ということである。大体、いま参道から上がってきたばかりの僕が手を清めていないことなど百も承知だろうに、当てつけにも思える行動だ。

 苛立った僕は、彼女が帰ってくるまで、そこで立って待っていた。お参りに来たわけじゃないんだから、別に手を清める必要なんてない。それを行動で示そうとしたのだ。

「お待たせしました」
 小花柄のハンカチで手を拭きながら、彼女が戻ってくる。

「行きましょうか」

 さも当然であるかのように、本殿のほうへ歩いて行く。さっきまで自分もそこへ行こうとしていたというのに、苛ついた僕は授与所のほうへ足を向けた。

「あっ、そうでした」
 すると、彼女は何かを思い出したように、こちらに歩いてくる。そのゆっくりとした歩み。

 それも「設定」か? 呆れながら待っていると、彼女は肩にかけた小さなバッグを探り、中の財布から五十円玉を取りだした。昨日のお釣りです、にこりと笑う。

「別にそれくらい、良かったのに」

 意地を張って言うと、いいですから、と彼女はずいと五十円をつまんだ手を近づけた。渋々とそれを受け取った瞬間、ひやり、彼女の手が触れる。その手の冷たさに、思わずびくりとすると、ごめんなさい、僕の反応に驚いたように彼女が言った。

「いや、手、冷たいね」
 言い訳のように僕が言うと、

「冷え性なんですよね」

 彼女はなぜだか少し、うつむいた。そういえば、彼女の肌は妙に白い。青ざめているといったほうが正しいだろうか。こんなに小さくて華奢なんだから、もしかしたらダイエットのしすぎで貧血なのかもしれない。神社へ来るのも、参道を往復するという運動を兼ねているとか。

「……もっと食べた方がいいんじゃない?」

 ぽろり、そんな言葉が口からこぼれた。そうしてから、ああこれじゃ相手の思うつぼだと舌打ちしたくなる。

 白くて華奢でご飯もろくに食べられない私。そういう「設定」は、女の子の大好物だっていうじゃないか。

 しかし、僕の考えとは裏腹に、彼女は「あはは」と、上滑るような笑い声を出しただけだった。ノッてやったのに、何だよこいつ。

 僕は無言で踵を返すと、授与所の内側を覗き込んだ。もちろん、本来の目的であるユズへのお守りを買うためだ。

 すいません、とガラスの向こうに声をかける。しかし、昨日と同じく、反応はない。すると、再び彼女の声が言った。

「あの、そこ、この時間はいつも人がいないんです」
「え?」

 振り向いた顔が、よっぽど嫌そうな顔をしていたんだろう。彼女が首をすくめる。

「だって、売り場なんだから常に人がいるべきだろ」

 僕は言い訳のようにそう言って――何だか彼女と会うと言い訳ばっかりしてバカみたいだ、ため息をつく。

「でもこの時間は人も来ないし……」
 彼女は小さく言うと、別の建物を指した。

「あっちの社務所にいるはずですよ。私、呼んできましょうか?」
「ああ、いいよ別に」

 のろのろと歩いて行かれるより、自分で呼んだ方が早い。嫌々ながら、僕はその社務所とやらに歩き出した。そうしながら、この間の神主みたいなオッサン……日熊さんだか何だかが出てこなきゃいいなと思う。お茶を飲んで休んで行けという誘いをぶっちぎった自覚はあるのだ。

「……すいませーん」

 戸を叩き、僕は中に呼びかけた。すいませーん、もう一回。……いないみたいだ。何となくほっとして、振り返ったときだった。

「はいはい、何かね?」

 ガラリ、戸が開いて、中から見覚えのある丸顔が出てきた。
 あのオッサンさんだ。ギョッとして固まると、相手も僕の顔を思い出したようだった。

「ああ、あの、こないだの。大丈夫だったけぇ?」
 遠慮のない大声で言う。

「あ、はい大丈夫でした……」
 反対に僕は小さく言って、「お守り買いたいんですけど」、口早に用件を伝える。

 はっはっは、すると大声でオッサンは笑った。

「怪我してからお守り買うだけぇ」

 冗談だか何だか知らないが、見当違いのことを言う。バカかよ、僕は愛想笑いを浮かべながら彼が授与所に移動するのを待った。しかし、予想外にも、彼は間口を開けるように太い体をねじり、どうぞ入って、と言う。

「えっと、そうじゃなくてお守りを……」
「そがぁ遠慮せんで。ほら、入り」
「でも……」

 面倒くさいオッサンだ。どうせ、若いのをつかまえて説教かましたいだけだろう。そりゃ僕は暇かもしれないけど、それはオッサンの説教を聞くための暇じゃない。

「僕、時間ないんで……」

 ぼそぼそと言う。しかし、どうにか逃げようとする僕の試みは、彼女の出現によって阻まれた。

「おっ、藤川さんも来たけぇ。それじゃ、お茶、飲んで行きんさい」
 嬉しそうにオッサンは言うと、いそいそと奥へ引っ込む。

「あ、この間もごちそうになっちゃいましたし、お構いなく」
 彼女も声を上げたが、

「いいからいいから」
 奥から声が返ってくる。カチャカチャと湯呑みを用意する音が聞こえてくる。

「……じゃ、せっかくなんでいただいちゃいましょうか」
 あっさりと彼女が日傘を畳む。

 いや、もう少し抵抗しろよ。ってか、お茶を飲まないとお守りも買えないのかよ……

「どうしたん、ほら、上がって上がって」

 戻ってきたオッサンが、靴も脱がない僕たちを見て催促する。机に置かれたお盆には、三人分の湯呑み。ほらな、お茶を出すって言って自分語りしたいだけなんだよ、オッサンは。

 僕がうんざりしていると、

「じゃ、お邪魔します」

 トン、入り口に日傘を立てかけた彼女が、先に中へ入る。お邪魔します、僕も仕方なくつぶやくと、勧められたパイプ椅子に浅く腰かけた。

「お茶、熱いのもあるけど、どっちにする?」
 獲物を二人もつかまえて、にこにこ顔のオッサンが尋ねる。

「あ、私は冷たいので……」
 彼女が言う。

「僕も……」
 真似をして僕も答えた。彼女が冷たいのと答えて良かった。こんな暑い中、熱いお茶を飲まされるなんて拷問以外の何物でもない。

 と、オッサンが注目を集めるように人差し指を立てた。

「暑いときに熱いお茶って思うじゃろ? けど、昔の人は暑いときこそ熱いもんを飲んでたらしいで。その方が体にええんじゃと」

 ……つまり、冷たいのじゃなく、熱いお茶を飲め、と。じゃ、どっちがいいのか聞いたのは何だったんだよ。

「じゃ、熱いので……」
 顔が引きつりそうになりながらそう言うと、

「ええ、でも私は冷たい方がいいです。いいですか?」
 彼女がにっこり首をかしげる。すると、もちろんええよ、オッサンはガハハと笑った。

「まあ結局、自分の好きなもんを飲む方が、体にはええと思うんよ」

 そう言いながら、彼女と自分には氷入りの冷たい茶を、僕には「君は熱いのやね」と急須の茶を注ぐ。オッサンと彼女、二人がかりでバカにされたような気分で、僕はそのくそ熱い茶に口をつけた。

「いやあ、今日も暑いねえ」

 カラン、涼しげな氷の音をさせながら、オッサンが手をパタパタさせる。社務所の中には、扇風機が回っているだけで、クーラーはない。まあ、みんなが汗だくで参道を登ってくるのに、神主の部屋だけクーラーガンガン効いてたりしたら、かなり腹が立つけれど。

「暑いですねえ」

 オッサンに合わせるように、彼女ものんびりと息をつく。そして、沈黙。扇風機の回る音と蝉の声。

 いや、何か話せよ。ってか、話がないならわざわざ招き入れるなよ。何なんだよ、この無駄な時間は。

 僕が一人カリカリしていると、ふと彼女が思い出したように口を開いた。

「そういえば、昨日、月森くんと話してたんですけど」
「月森? へえ、君、月森っていうだけぇ」

 オッサンが目を細める。

「あ、お知り合いですか?」
 彼女が首をかしげると、

「いんや、昔、知り合いにおってね。ほら、珍しい苗字やから」
「そうなんですか? 聞いたことなかったけど、島根にはたくさんいるのかなあ、と思って」

「いやいや、ようおらんよ。まあ、そりゃいるとこにはいるんじゃろうけど」
 俺の知り合いはなかなか、そう言って、冷たい茶をつぎ足す。

「で、何を話しとったって?」
「あ、えっと、この間、日熊さんにイザナミのお話を聞いたじゃないですか。それを話してて」

「ほう」
「で、あの千本鳥居の参道、あれが黄泉と現世を繋ぐ道みたいだねって」

 ね、と彼女がこちらを見る。特に否定する理由はないのでうなずくと、

「ああ、そうじゃねえ……」
 オッサンは太い指であごを掻いた。

「すると、本殿が黄泉で、下った先が現世というわけじゃ」
「え?」

 参道から登ってきた本殿が光溢れる現世だ、昨日考えたこととは真逆の言葉に、僕は思わず声を上げた。

「それって、逆じゃないですか?」
 すると、隣の彼女もうなずいた。

「私もそう思ってました。下の方が黄泉国で、こっちが現世かなって……」
「しかし、参道の意味を考えるとやなあ……」

 オッサンは首をかしげた。それから、にやりと笑みを浮かべ、僕らを見る。

「君ら『参道』ってのはどういう場所か、知っとるか?」
「どういう場所かって……神さまに会いに行く道、とか?」

 彼女の答えに、僕もうなずく。

「『参る道』なんだから、そういうことじゃ……」
「まあ、そりゃそうじゃ」

 オッサンはあっさりとうなずいた。しかし、とすぐに続ける。

「けど、もう一つ意味がある。ええか、神社ってのは神さまにお参りする場所じゃ。体を清め、願い事を祈願して、どうなるか。――新しい自分に生まれ変わる」

「新しい自分に……?」
 つぶやくように彼女が言う。

「そうじゃけん」
 オッサンは深くうなずいた。

「あのな、勘違いする人も多いけんど、神さまに祈るだけじゃ、なぁんも変わらんのじゃ。それがいわゆる『神頼み』、他力本願っちゅうやつやな。でも、本当のところはそうやない。そうやなしに、神さまに祈るという行為によって、自分が変わるんじゃ」

 わかるか、と僕と彼女を交互に見る。その視線から逃れるように思わず目を伏せると、隣で彼女も目を伏せているのが見えた。

 祈るという行為によって、自分が変わる? うつむきながらも、僕は思った。祈るだけじゃ「他力本願」だなんて、それって神さまの存在を全否定してないか? みんな神さまの力で願いを叶えてもらうために、ここに来てるんだろうからさ。

「だから、あの祈り短冊もなあ……」

 オッサンは冷たい茶を一気に喉に流し込んだ。

「あれも、本来は精霊祭の短冊で、亡くなった先祖に感謝を捧げるものじゃけん。まあ、願い事書かれるのはよかやけど、そがぁことが本質じゃないけんね」

「……願い事は、叶いませんか?」

 すると、らしくもなく、彼女が小さく言った。オッサンはそれに首を振る。