――グランツ王国第三王女・レリア姫が青年に人差し指を突きつけた、その瞬間から時計を巻き戻すこと数時間。

 グランツ王国の王城内、豪華絢爛なる大広間で開かれた仮面舞踏会は、多くの貴族たちで賑わっていた。

 今宵は身分の上下のない無礼講。真夜中十二時の鐘が鳴るまで、仮面にその素性を隠した、ひとときの戯れ。この盛大な宴は、来年、建国二百年を迎える王国の前祝いという触れ込みであった――少なくとも、表向きは。

 けれど、主催の国王を初めとして、その臣下たちは、事の経緯を余すことなく知っている。だからこそ、彼らは口を開いたかと思えばため息ばかりついているのだ。

 無論、彼らとて知らずにいられるものならば知りたくはなかっただろう。国王の誕生祭よりも盛大に開かれたこの宴が、レリア姫のわがままを実現したものだということを。

『お父様! あたし、恋がしたいの!』

 王国の税制改革案並びに本国の食料備蓄割合について――厳粛かつ真面目な議題の出された王の会議室。そこに飛び込んだレリアの、これが第一声であった。

『姫さま、ただいまお父上は会議中で――』

 慌てて彼女を止めようとした大臣の老体を思い切りはね飛ばして、レリアはグランツ王の前に駆け込んだ。そして、何事かと言いかけたグランツ王の口を塞いだ。

『いいえ、お父様。あたしの話を聞くまで、何にもおっしゃらないで。だって、あたしなりによく考えた結果なのよ。だから、もし話を聞いていただけないなら、大変なことをしでかすつもりよ』

『……大変なこと、とは何だね、レリア?』

『それは――……それはまた、これから考えるつもりだけど』

 娘の台詞にグランツ王は頭を抱え、皆に出て行くように合図した。ガタガタと椅子が引かれ、大臣たちが――もちろん、姫にはね飛ばされた老臣も――大人しく会議室を出て行く。

 なぜなら常日頃の事例から、彼らはよくわかっていた。王がこの末娘に甘いことも、それからこの場から彼女を追い出すことが不可能なことも。

 とにかく、何事においても彼女は一途で衝動的なのだ。大体、「よく考えた結果」なら、重要な会議中に飛び込んでくるようなこともないだろうし、しでかすつもりの「大変なこと」を話を断られてから考えようとすることもないだろう。

 しかし、大臣たちが反論もせずに素直に会議室を明け渡したのには、もう一つの理由があった。

 それはいよいよ来年の春に迫った、王女の結婚だった。嫁ぎ先は海を越えた外《と》つ国、エルガ公国。その第四王子シリルが相手である。

 もちろん、それは双方の国にとって利益になる婚儀である。けれど、その利益はそのまま当の本人であるレリアには当てはまらない。

 王女とはいえ、やっと十五になったばかりの少女が、一度も会ったことのない王子の元へと嫁ぐのだ。その胸中に不安がないはずはない。

 それでも、レリアは王家に生まれた娘だった。幼いころから婚約者の存在は知っているし、年上の姉たちがそれぞれ慣れぬ土地に嫁いでいったのを見送っている。彼女にもそれなりの覚悟はあった。けれど、どうしても一つだけ、レリアには譲れないことがあったのだ。それが――。

『お父様、あたし、恋がしたいの』

 レリアは、父王に訴えた。

『一晩だけでいいのよ。お父様がお決めになった婚約者じゃなく、あたしが選んだ人と』

 国王は目を剥いた。

『いっ、一夜限りの恋だと?! 結婚前の娘がそんなふしだらなことが許せると思うのか!』

『まあ、お父様ったら不潔だわ!』

 しかし、レリアは顔を赤くして悲鳴を上げた。まだ少々幼いところのある彼女が意味したのは、国王の考えるような「ふしだら」なことではなく、ただ純粋なる恋愛のことだったのだ。

『あたしは恋がしたいって言ってるのよ! 二人だけに通じる秘密のサインを交わしたり、夜会を抜け出して夜の庭園をお散歩したり……』

『そ、そうか。それなら……』

 国王はほっと胸をなで下ろし――果たして安堵すべきなのかどうか自問する。しかし、その様子を承諾と受け取ったレリアは父王の首に腕を回し、にっこり笑ってこう言ったのだった。

『じゃ、決まりね。どんな宴にするか、一生懸命考えなくっちゃ』