鍵穴にゆっくり鍵を差し込んで回す。ガチャンという冷たい音が響いて、ああ、また会社に行かなくちゃいけないんだ、と憂鬱な気持ちになる。
 共用廊下を歩いてエレベーターの前で足を止めた。
 エレベーターに閉じ込められないかな。そうしたら会社に行かなくてすむのに。
 なんて、そう都合よくはいかないか。
 私が下ボタンを押したとき、背後でドアの開く音がした。その部屋に住んでいるのは、なんの縁か、同じ会社で同じ部署、しかも同期の松原くんだ。
「はよっす」
 鍵をかける音とともにぶっきらぼうな声が背後から聞こえてきた。
「おはよ」
 私は前を向いたまま答えた。昨日の夜、泣いたせいで、目元が少しむくんでいるのだ。憧れの松原くんにはこんな不細工な顔、見られたくない。
 エレベーターの階数表示を眺めているふりをする。エレベーターはまだ十階だ。
 エレベーターに閉じ込められたいって思ったけど、松原くんと一緒なんて申し訳ない。彼は我が営業部のエースなのだから。
「早いんだな」
 松原くんが言いながら右隣に並んだ。
「まあね。私、営業成績悪いから」
 私は視線を床に落とした。
「わかってんだな」
「そりゃ、わかるよ」
 うちの会社は入社したらまず営業部に配属される。そうして自社商品について勉強して売り込めるようになってから、ほかの部署に異動になるのだ。給料日には成績のいい順に給料を手渡しされる。あとになればなるほど渡される茶封筒の厚みが薄くなるため、成績が悪いと当然肩身が狭い。
「おまえさ、なんで俺を頼ろうとしないわけ?」
 右隣から不機嫌な声が聞こえてきて、私は松原くんを見た。
「え?」
「なんのために俺がいると思ってるんだよ」
「なんのためって……」
「昨日、成績のことで課長に怒られて、家で一人で泣いてたんだろ」
 私はハッとしてまた視線を落とした。
「潜在顧客の探し方とか、ニーズの拾い方とか、俺に訊けよ。そんぐらいのノウハウ、俺だって教えてやれる。こんなに近くに住んでるんだから、もっと頼れよ」
「だって……そんなの、松原くんの迷惑になるし……」
 困惑して右隣を見ると、彼が仏頂面で言う。
「長野に頼られて、迷惑だなんて思うかよ。俺はいつだって長野の力になりたいって思ってるんだから」
 その言葉を聞いて、私の頬がカァッと熱くなった。
「あ、ありがとう。そう言ってもらえただけで嬉しい。もう少し自分でがんばってみるね」
「それって俺の力は必要ないってこと?」
 松原くんの声は不満げだ。
「そ、そういう意味じゃなくて……さっきの言葉にすごく元気をもらったから」
「なんだ」
 松原くんがぶっきらぼうにつぶやいたとき、エレベーターが到着して扉が開いた。
「なんだってどういう意味?」
 先に乗り込む松原くんの背中に問いかけた。松原くんは一階ボタンを押してから不満顔で言う。
「『松原くんに手をつないでもらえたら元気になれる』とか『ギューッてしてくれたらがんばれる』とか……そういう返事を期待してた」
「えっ」
 私の顔がますます熱くなる。
「そういうの、いらないかな?」
 そう言った松原くんの顔も真っ赤だ。
「い、いる! いります! ほしいです!」
 思わずそう言ったら、松原くんの左手がすっと伸びて、私の右手を握ってくれた。
「ギューッは会社のあと、二人きりになったときにな」
 松原くんの照れてかすれた声が、ものすごくくすぐったい。

【了】