僕が初めてアヤカを自分の両目に写し出した時、アヤカは焼きそばを険しい顔で啜っていた。それはただ焼きそばが嫌いだというよりは、まるで、バーベキューの締めには、鉄板で焼きそばを焼いて食べるという当たり前に対して、反抗しているようにも見えた。



 19歳のアヤカにはわかっていた。当たり前がいかに愚かで、面白味のないものであるかということを。それは誰かから教えられたわけでもなく、彼女が生きてきた19年の中で、当たり前にさらされてきた環境が彼女に諭したのだ。



 人が右を向けば、左を向く良さを知っている。



 人ごみでごった返した右側のビーチの景色よりも、誰一人いない無色透明の澄んだ左側の海の方が価値があるということを生まれつき知っている。



 そして、水面に太陽の光が反射して、夜空の星のように海が輝くのを見て、弾けんばかりの純真無垢な笑顔で喜ぶこともできる。夕焼けに染まる地平線の向こうに、貧困によって命を落とす子供達を想って、涙することもできる。



 前人未踏の地なんてないことも知っているが、もしそれを自らの足で一番最初に踏みしめた時、その瞬間からそこが理想郷になることも、感覚でなんとなく知っている。



 いや、知りすぎている。少なくとも19歳の若者の中では、一番よく知っている。またそれと同時に、知らない方が幸せなこともあるということも十分よく知っている。



 その考えは僕と同じだった。まるでよくできた蝋人形のように、多少の違和感こそあるものの、僅かな違いを探すことの方が大変なくらい、僕たちは似通っていた。