どこまでも続く広い高原。
黒く美しい髪が風になびいている。
ルイーズは乗馬が好きだった。
馬のたくましく打つ心臓の鼓動を一番近くで感じられる気がするからだ。
「上達したな」
父親がルイーズの愛馬、フィリップの手綱をとる。
「ありがとう、お父様」
鞍をつけていない馬の背から、ルイーズは飛び降りた。
「でも、こんな泥だらけの姿を見られたらまたお母様に怒られるわ」
ルイーズは寂しそうにフィリップの、たてがみをなでる。
父は困ったように笑うだけだった。
「そうね、とても怒ると思うわ」
背後から低い声がした。
フィリップが激しく暴れルイーズは必死にその手綱をおさえた。
いつもは穏やかな深い茶色の目を深紅に染めて、愛馬は跳ね上がった。
「お母様、やめて!」
フィリップは苦しそうに身をよじらせて、ルイーズを、振り払い遠くへ走っていった。
そのあとを母の指示で馬屋番が追う。母はゆっくり手をおろした。
「フィリップに呪文を使うのはやめて!」
母親に詰め寄ったルイーズだが、見えない無数の手に全身をつかまれたかのように身動きがとれなくなった。
「それじゃあ男みたいな格好で馬を乗り回すのはやめなさい」
母親の目は不気味に赤く光っていた。
「なぜ。なぜ、お母様は私のやりたいことを全て奪っていくの?」
母の冷静だった表情が少しゆるんで、笑った。
「全て、あなたのためよ」
全身を締め付ける力がさらに強くなり、ルイーズは自分の足が地を離れるのを感じた。
助けを求めようと父の方を見たが、彼は気まずそうに下を見つめるだけだった。
「もう馬には乗らないと約束しましょう」
「嫌よ!」
懸命にもがいて叫んだが、母は手をおろそうとしない。
「約束しましょう」
締め付ける手が首にものびてきて、想像もできぬような力でルイーズの息の根を止めようとしてきた。
母に殺される
ルイーズはそう感じた。
「約束してくれるわね?」
朦朧としていく意識の中で本能的に自分が首を縦に振るのが分かった。
体が自由になり、地面に倒れこむ。
激しく咳込んだが、そのおかげで新しい空気が身体中をめぐった。
母は満足したようにほほえみ、父を後ろに従えて帰っていった。
震えが止まらなくて、ルイーズはまだ立ち上がれないでいた。
あの時私が首を縦に振らなければ、母は私を殺しただろう
胸をやく悔しさと悲しさがルイーズを襲い、涙が頬をつたっていく。
その時、背後で蹄の音が聞こえ、誰かが上着を掛けてくれた。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
その人はルイーズの前にひざまつき優しく頭をなでた。
緊張がふっと消え、ルイーズは強ばっていた表情を崩して、優しく笑った。
「ダニエル、フィリップをありがとう」
立ち上がって唯一の乗馬着に着いた土を払っていると、いつもの落ち着いた瞳を取り戻した愛馬は主人に優しくほおずりをした。
「乗って」
ダニエルはルイーズに手綱を渡した。
「だめよ。今の話聞いてたでしょ?」
しかしダニエルはルイーズの手に手綱を握らせた。
「君はルイーズじゃないよ。馬屋番の恋人だ。ほら、後ろに乗って」
幼い頃から変わらないダニエルの笑顔はいつもの彼女を救った。
馬を好きになったのもこの幼馴染みがふさぎ込みがちのルイーズを辛抱強く外へ連れ出してくれたからだ。
多少の身分の差はあったものの、ふたりがそれを気にすることは一度もなかった。
ルイーズにとってダニエルはこの世でたったひとりの心の支えであった。それと同時に本当に心から愛する人だった。
「このままどこかへ行ってしまおうか」
馬に揺られながら広い草原を駆けているとき、ダニエルがつぶやくように言った。
ルイーズは、はっと我に返って馬を止め、飛び降りた。
「だめよ!絶対に、そんなこと」
そうルイーズが叫ぶとダニエルはとても悲しそうな顔をした。
「なぜ?僕のこと愛していないのか?」
「違うわ。私の母の魔力を見たでしょ?どこへ逃げても必ず見つかる。そしたらあなたまでも巻き込んでしまう」
「僕はどうっなってもいいから。今すぐ逃げよう」
ルイーズは諦めたようにため息をついた。
「私が耐えられない。あなたまでもが奪われたら?あなたまでもがいなくなったら、私はどうすればいいの?母は何でもする。私たちが想像もできないようなことを簡単にやってのける。あの人は魔女なのよ!?」
声を荒げたルイーズを見つめたまま、ダニエルは何も言えずにいた。
ふたりの間に沈黙した時が流れる。
ルイーズは深く息をはいた。
「ごめんなさい」
そうぽつりとルイーズがつぶやくと、ダニエルは彼女を抱き寄せた。
「いつかここを離れてふたりで暮らそう。もう何も恐れることなんかない。君は自由になるんだ」
いつかそんな日が訪れたら
ルイーズはその幸せな暮らしに思いを馳せた。
「あなたがいるなら…」
彼こそが世界の全てで、またルイーズの幸せでもあった。

その時、遠くの方で高い悲鳴があがった。と、同時に遠くの森からコントロールを失い狂ったように疾走する馬が飛び出してきた。
「どこの馬だ?」
ダニエルはその馬に目を凝らしている。
しかし、何よりも先にルイーズは気づいた。
「女の子が乗っているわ!!」
フィリップの、手綱を掴み、ルイーズは再び草原を駆けはじめた。
暴走馬に乗っている少女は手綱を手放してしまったらしく、目をぎゅっとつぶり必死に馬の首にしがみついている。
「合図するまで絶対に離さないでね!」
並走を試みながら、ルイーズはその女の子に叫んだ。
少女は声こそ出せなかったが、その代わりに激しくうなづいた。
ルイーズは手をのばしながら、少女の馬に並んだ。
「今よ!!」
そう叫ぶとルイーズはフィリップの背から暴れ馬に飛び移った。
一瞬のうちに少女を抱きかかえ、ふたりで馬から転げ落ちる。
少女は11、2才で、真っ白な肌に鮮やかな紅色の唇を持ち、腰まである長い髪はルイーズと同じ艶めく黒だった。
「けがはない?」
そう尋ねると、少女はやっと口を開いた。
「本当にありがとうございます。あなたは命の恩人だわ」
質のよいドレスから少女の家はかなり裕福であることが見てとれた。
「スノー、といいます。あなたは?」
「ルイーズよ」
ルイーズは''スノー''と名のった少女の瞳をじっと見つめた。
その瞳はどこまでも透き通っていて、彼女が本当に誠実で純粋であることがわかった。
その誠実さ純粋さは、どんなに年月がたっても決して揺らぐことはなかった。