「よーし、準備はいいな? いくぞ」
全員がゴーグルを装着したのを見計らい、先生が掛け声をかける。その合図とともに端壁に足をつけて手を伸ばし、蹴伸びの体勢に入る。
――ピッ!
笛の音を皮切りに、全員が水の中を進み出す。
スタートのタイミングとしては一瞬出遅れたものの、身体は一連の流れに沿ってちゃんと動いていた。その場で潜り、足の指先にしっかり力を入れて壁を蹴る。そしてその勢いに任せて身体を伸ばしながら力を抜く。
軽くなった身体は、簡単にすいっと前に進んでいった。外の音を遠ざけた静かな水の中を真っ直ぐ突き進む。
泳法はクロール。泳ぎ慣れたその動きを、身体はまだ完全には忘れていなかった。手も足も悠々と水を掻いて、水の中を思うままに進んでいける。ちゃんと、泳げていた。
白く細やかな泡が、水色の視界の中で後ろへ流れていく。息継ぎをするために顔を上げると、日に照らされた水飛沫が煌めいていた。
……ああ、そうだ。この感覚だ。
私を包む水の世界に受け入れられて、そこを自分の意思で泳いでいく。
この世界でかつて私は――息をしていたんだ。
25メートルはあっという間に過ぎた。難なくターンして泳いだ水路を引き返す。大してスピードは出していないから身体はあまり疲れなかった。
……でも、心は違うらしい。
泳げば泳ぐほど、違和感が襲いかかってきた。泳いではだめだとブレーキをかけるように、悲鳴を上げ始める。
この場所を求めている身体と相反する心が、互いを強く主張するようにせめぎ合う。自分がどちらに従いたいのか分からなくて、徐々に息を吸うのが苦しくなるのを感じた。
一度この世界で知ってしまった苦しさは、簡単には忘れられない。
心の一番深いところに出来た黒い染みはこの場所に居るほど濃くなって、私を癒してくれるはずの水に密かに溶け込みながら私を包み込む。


