遠くの光にふれるまで





 アパートの下まで送ってもらって、連絡先を交換してから別れた。

 部屋の鍵を取り出すのと同時に、クルミちゃんからのメール。「野分さんと良い感じでしたね。でも浮気はダメですよー?」……浮気じゃないでしょ。ただ楽しくおしゃべりしただけだもの。

 訂正メールを打ち込みながら部屋に入って、電気をつける、と。


「う、わあ! びっくりした!」

 ベッドにうつ伏せてぐったりしている人影が見えて、一瞬、わたしの部屋で殺人事件が起きたのかと思った。
 いや、正確には殺「人」事件ではない。「殺」人事件でもない。
 ひのえさんだった。

 今日も人には見えない、黒い着物の、天使の姿だった。
 鍵も閉まっていたし、身体が透けているのをいいことに、ドアや壁を無視して侵入したらしい。

「あの、ひのえさん。お久しぶりです」

 声をかけたけれど、ぴくりとも動かない。
 あれ、これ、本当に事件? どうしよう、警察……? と不安に思っていたら、もぞ、と。ようやくひのえさんの肩が動く。良かった、生きている。


「……若菜」

「はい」

「……浮気すんなよって、言ったよな」

「はい?」

 顔を少しだけずらして片目だけをこちらに向けて、ひのえさんはぼそっと、そんなことを言う。
 ああ、野分さんといるところを見たのか。

「浮気なんてしていませんよ。飲み会に行っただけです」

「部屋まで送らせたのにか?」

「方向が一緒だったので」

 不機嫌な顔のひのえさんは、のそのそと身体を起こして、床に座っていたわたしを見下ろす。

「もう、行くなよ」

「どうでしょうか、上司の誘いだったので。ひのえさんだって、天使の皆さんと飲みに行くでしょう?」

「そら行くが……仲間だし」

「その中には女性もいますよね」

「そらいるが……仲間と間違いは起こさねえよ」

「わたしだって間違いは起こしませんよ。同じことです」

「……」

「もういいじゃないですか。久しぶりに会ったんだから、ゆっくりお話しましょう。何か飲みます? あ、天使の姿で飲食ってできるんですか?」

 質問しても、不機嫌な顔のひのえさんは、何も答えてくれない。
 代わりに、睨むようにわたしを見ていた。

 どうしよう。久しぶりに会ったのに。こんな喧嘩みたいな、気まずい思いをしたいわけではないのに。
 やっぱり遠距離……住んでいる世界レベルでの遠距離恋愛は、意志の疎通が難しいのかしら……。


「……分かった、若菜」

「はい」

「デートしよう」

「はい?」

「おまえが休みの日、俺も休みを取るから。現世のやつらが行くような所に行くぞ。映画とか、遊園地とかだろ?」

「は、はあ……」


 突飛な提案だった。
 そういえばデートらしいデートをしたことがなかった。
 何回かしか会っていないけれど、わたしの部屋でだらだらするか、ベッドに入るかの二択だ。

 シフト表で休みを確認して、七日後に決まったけれど……デートなんて。そりゃあ身体ばかりで、恋人らしいことはなかったけれど。いざデートとなるとなんだか気恥ずかしい。


「行きたいとこ、考えておけよ」

「部屋でいいですよ」

「それじゃデートになんねえだろ」

「うーん……?」

 どうしちゃったんだろう、ひのえさん……。お部屋でだらだら過ごすのに飽きてしまったのだろうか。わたしとしては、人混みを歩くよりも、部屋で好きなことをしているほうが楽しいんだけれど……。


「参考までに、ひのえさんは今まで天界でどんなデートをしました?」

「そうだな……。温泉行ったり、料亭で飯食ったり……」

 ただのデートで温泉? 料亭? さすが副隊長……。
 今までそんなデートをしてきたひとに、河原でのんびりだとか、一緒にスーパーに行っておうちでごはんだとか、普通のことを提案したら「はあ?」と言われてしまいそうだ。
 あとで「デートスポット 定番」で検索しておこう……。


 この日ひのえさんは、ベッドに入ることもなく、ごはんも食べずに帰って行った。