「どうしました?」
空いた左手でひのえさんの腕を擦りながら聞くと、彼は深いため息をついて項垂れる。
「……山吹の言う通りだな。若菜と一緒にいるからって安心して慢心してたら、いつの間にか取り返しのつかないことになるかもしれないって」
「それはお互い様ですし」
「そりゃあそうだろうけど……」
もう一度深いため息。つい数分前までミキちゃんからのラブレターにでれでれしていたとは思えない沈み様だ。
「俺よりも、その同期で同僚ってやつのほうが、よっぽどおまえを知ってる。何より俺が知らないおまえの十六年を知ってる。職場も同じなら、これからも知っていくだろうし……。こんな状態が続けば、そいつに取られ兼ねないんだよな……」
些細な仕返しのつもりが、思いの外落ち込んでしまったみたいだ。
こんなに落ち込まれては早いとこネタばらしして謝ったほうがいい。ごめんなさい、と口を開きかけた、とき。
ひのえさんが顔を上げ、真っ直ぐこちらを見つめて「若菜」とわたしの名を呼ぶ。
「一緒に暮らすか。うちの寮の部屋になっちまうけど、ふたりで暮らすには充分の広さだし。うちからの方が学校も近いだろ」
それは、突然の提案だった。
「え、ええっ?」
わたしは素っ頓狂な声をあげ、一歩後退る。ただし右手を掴まれたままだったから、距離が離れることはなかった。
「い、一緒に暮らすんですか?」
「嫌か?」
「嫌ではないですけど……良いんですか?」
「いいよ。4LDKを完全に持て余してるし。ただでさえ住んでる場所が離れてるのに、休みが合わなくてなかなか会えないし。一緒に暮らせば朝晩顔を合わせるだろ」
それは、嬉しい提案だった。
あんまり嬉しくて、どう返事していいのか分からず、混乱して、とりあえず「ごめんなさい」を言った。
「……あ? 同棲はまだ早かったか?」
このタイミングで謝罪をすれば、同棲拒否と取られてしまう。当たり前だ。
「そうじゃなくて……その、ちょっとした意地悪のつもりだったんです。ミキちゃんと仲良しのひのえさんに嫉妬して。わたしはミキちゃんに相当嫌われてしまったので……。でもまさか、一緒に暮らそうなんて言ってもらえるとは……」
「はあ? 意地悪? 若菜が? なに珍しいことしてんだよ、焦るだろうが」
「はい。慣れないことはするもんじゃないですね。罪悪感がいっぱいで……」
「そりゃあ基本無警戒で無頓着で危機感がないのがおまえだしな」
それを聞いて苦笑して、ひのえさんの胸にこてんと額をつける。
「……一緒に暮らしても、いいんですか?」
「ああ。おまえさえ良ければだけど」
「……良いに決まってます。少しでも長い時間、一緒にいたいです」
意地悪をしたというのにひのえさんは怒りもせず、「じゃあ一緒にいよう」と言ってわたしの身体を抱き寄せた。
やっぱり何もかもが上手くいっている。こんなに幸せでいいのだろうか、と。不安になったけれど、こうなるまでに十八年かかったのだから、少しは許されるだろう。
ひのえさんの背中に腕を回して、ぎゅうっと強く抱きついた。
道行くひとたちがちらちらとこちらを見ていたけれど、気付かないふりをした。



