太子の寝所から自身の執務室に戻ったガーランは、机に向かったもののぼんやりと机上の書類を眺めていた。
 もうすぐあの娘がやってくる。そう思うと、心はそれに囚われた。かつて魔獣の都で生涯を終えたシィアンと同じ魂を持つ娘。

『たとえ何度生まれ変わっても、私の魂があなたを受け入れることは決してない』

 魔獣王の腕に抱かれながら、シィアンは気丈に冷たく言い放った。
 魔獣の都に拘束され、魔獣王の慰み者となり、術をかけられ自ら命を絶つこともできず、一生人の都には戻れない。人の娘にとっては絶望的な状況だろう。

 けれどシィアンの心は決して光を失わなかった。泣いて許しを乞うほどに痛めつけて、絶望を味わわせてやろうと思ったことは何度もある。そうしなかったのは、それでもシィアンの心は陰の気に穢(けが)れることはないと確信していたからだ。

 シィアンは黙って魔獣王に身をまかせながらも最後まで心を開くことなく、笑顔を向けることもなかった。

「フンドゥンには笑顔を見せていたな」

 ふと思い出してガーランは皮肉な笑みを浮かべる。シィアンは連れて来られた当初から、魔獣に対してあまり大きな恐怖心は抱いていなかった。特に動物の姿によく似た魔獣には好意すら感じられる。動物好きだったのかもしれない。
 そんなシィアンに興味を持ったフンドゥンは、よくシィアンの周りをうろついていた。大きな黒犬に似たフンドゥンは気性もおっとりしていて、シィアンにはかわいく見えたのだろう。興味津々で匂いを嗅いだりするフンドゥンに、笑みを浮かべて頭をなでたりしていた。

 そんなとき、シィアンの心は陽の気が満ちて光り輝く。それが魔獣王には不快で、無性に苛ついた。苛立つままにフンドゥンから引き離し、その場でシィアンを穢したことも一度や二度ではない。それでもシィアンは懲りもせずフンドゥンをかわいがった。

 思えばそれは、彼女のささやかな抵抗だったのかもしれない。シィアンは魔獣王に対していつも冷たく無表情でほとんど口も聞かない。そんな彼女が一度だけ表情を見せたことがある。