ようやく中天に達した臥待月(ふしまちづき)が、庭園を淡く照らしている。広い庭園を巡る極彩色の回廊に男がひとり立っていた。背中に垂らした長い黒髪を夜風になびかせながら、池の水面に映る月をぼんやりと眺めている。
ふいに池の畔にある木がガサガサと揺れた。男がそちらに目をやると、木陰から毛足の長い大きな黒犬の魔獣がのそりと姿を現した。自分のしっぽを口にくわえ、太い四つ足をそろえて座る。
男は不愉快そうに眉をひそめて魔獣を睨んだ。
「どこへ行っていた、フンドゥン」
魔獣フンドゥンはぼんやりと男を見つめる。うつろな赤い目はなにも見えず、頬の横に垂れた耳はなにも聞こえてはいない。ただ人の魂に刻まれた名前とその色だけは見えていた。
フンドゥンが聞こえていないことは男も知っていた。だが勝手な行動をとる彼に憤りをぶつけずにはいられない。
「おまえの気は人の世に混乱をもたらす。むやみに出歩いては、私の計画の妨げになることがわからないのか」
男の憤りなど解していないフンドゥンは、ポツリとつぶやく。
「シィアン……」
それを聞いて男は目を見開いた。
「あの娘に会ったのか?」
問いかけてもフンドゥンが答えるはずもなく、同じ名前を繰り返す。
「シィアン……」
「シィアンではない。あの娘はおまえのことなど覚えてはいない」
なにもわかっていないフンドゥンに苛ついて、男は声を荒げた。
シィアンと同じ色、同じ波動の魂を持つ門の娘。けれどシィアンではない。
男はフンドゥンから目を逸らし、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうだ、覚えてはいない。私のことも」