一難去ってまた一難。すぐにでも逃げ出したいのに、腰が抜けたのか立ち上がることができない。へたり込むメイファンに黒犬の魔獣がぬっと鼻先を近づけた。

「ひっ!」

 思わず声が漏れて全身が硬直する。黒犬の魔獣はおかまいなしにクスクスと鼻を鳴らしてメイファンの匂いをかいだ。今にも噛みつかれるのではないかと体が震える。ひとしきり匂いをかいだあと、黒犬の魔獣は顔を退いてメイファンの前に四つ足を揃えて座った。

「シィアン……」
「え?」

 黒犬の魔獣が発した言葉に、メイファンの頭が少し冷静になる。この魔獣は人の言葉がわかるのだろうか。少し待ってみたが黒犬はそれ以上なにも言わない。冷静になって初めて気づいたが、この魔獣は先ほどの猿のように怒りや敵意を発していない。
 メイファンはおずおずと声をかけてみた。

「シィアンって誰? 私はその人に似てるの?」

 けれど魔獣は何も答えず、ゆっくりと頭を下げる。

「シィアン……」

 再びつぶやいて、魔獣はメイファンの前に頭を差し出した。それはまるで犬がなでてもらうのをねだっているようだ。
 メイファンは恐る恐る手を伸ばして、魔獣の頭に触れた。ふさふさの黒い毛並みをそっとなでると、魔獣は垂れた耳の根元をピクピクと動かす。さらになで続けると、気持ちよさそうに目を細めた。
 愛嬌のあるその表情にメイファンも自然に目を細める。

「シィアンはいつもこうしてくれるの?」

 問いかけても魔獣は何も答えない。けれど益々嬉しそうに頭をくねくねと揺らした。
 そのままメイファンは、魔獣に請われるままにその頭や体をなで続ける。最初は怖かったけれど、こんなに人懐こくておとなしい魔獣もいるのだと初めて知った。