彼は、私に背中を向けて、庭の先にある川のせせらぎに耳を澄ませている。


彼の言う通り、お風呂の周りは足元だけ明かりがついていて、近づかないとお互いの顔もはっきり見えない。

私は、長井から一番遠いところから入った。



「握手を拒否されたときは、こんな日が来るとは思わなかった」
足元が滑らないように、薄暗い中ゆっくり歩く。


「えっと……ん?」

お湯に浸かった時には、彼は、私のことをしっかり見ていた。


「そこにいろ」
彼が泳ぐようにして近づいてくる。


「ちょっと、来ないでよ」


「亜湖の体なら、何度も見てる」


「今は……事情がちょっと違うの」


彼は、あっという間に私のそばに来た。
「これから、ずっと一緒に暮らすのに、そうやって逃げ回ても無意味だ」


「一緒に暮らす?」
彼は、私の横に並んだ。


「嫌か?」


「嫌じゃないけど、急だなと思って」


「急じゃないよ。そろそろ二か月だ。俺、何のために、会社から、家族向けの社宅借りたと思ってるの?」


「たまたまそこしか空いてなかったんでしょ?」


「それだけじゃないぞ。総務に、もう彼女と婚約してるから、二人で入居するって言い張って無理やり入れてもらったんだ。あの日、亜湖にその話をしようと思ったのに、俺、避けられた上に、握手も拒否されたんだぞ」


「そうだったの?」


「それにさあ、俺、一応営業の主任なのに、亜湖の横にいたいために法務部に入り浸ってるの、どれだけ風当り強いか、ちゃんとわかってくれてる?
何やってんだって言われるし。仕事も面倒くさくて大変なんだ。俺の方が、亜湖に会いたいがために、どんだけ阿保なのかわかってる?」