なんてことない雑談が、楽しくて仕方ない。昔の僕たちじゃあ、こうはならなかっただろう。きっとこれが、大人になったという証。あの頃の話もした。少しだけ仲良くもなれた。もうすぐ試合も終わるだろう。今はもう大人として、それぞれの道を歩んでいる。この些細な時間の共有は、今日だけのもの。そう思うと、急に寂しくなった。

「今日小林くんに会えて、本当に良かった」

 彼女がすっきりした声色で言う。

「俺もだよ。俺も、笹井さんが好きだった」

「小林くん、話噛み合ってないよ」

「うん、でも好きだったよ」

 黒板の方を向いたままそう言って、静かに右手を差し出すと、彼女は「話聞いてる?」と呆れたような声を出し、それでも左手で僕の手を握ってくれた。

 小さい手だと思った。温かい手だとも思った。できればずっとこうしていたいと思った。今日だけのことではなく、願わくは明日も明後日も。

 それなら口に出せばいい。共有できる思い出はほとんどないけれど、これから共有できる思い出を作ればいい。それをなかなか言い出せない僕は、やはり馬鹿なのだろう。年はとっても、あの頃から何も成長していない。

 その時、彼女と僕の携帯電話が同時になって、繋いだ手が離れてしまった。ディスプレイには今日僕を誘った友人の名前。彼女の方も同じだろう。彼女は慌てて廊下に出て、電話に応じる。それを確認してから、僕は通話ボタンを押した。

「もしもし祥太、おまえ今どこにいるんだよ、試合終わっちゃったぞ」

「悪い。今笹井さんと教室にいる」

「笹井も来てんのか。こっちは関や千葉や健や鈴村たちがいるんだけどさ、これからみんなでメシ行こうって。祥太も来るだろ?」

 ああ、この時間の共有もついに終わりか。電話を切って、つい数分前まで彼女に触れていた右手を見つめる。汗でびしょびしょ。こんな手を握らせていたなんて申し訳ないが、もっと手汗をかいたとしても、ここでちゃんと言わなければ。あの頃とは違うんだと、自分自身に言い聞かせなければ。

 机に両手をついて立ち上がると、ちょうど彼女が電話を終えて戻ってきた。

「桐からだった。憶えてる? 鈴村桐。一年生のとき、小林くんも同じクラス」

「笹井さん」

 彼女の言葉を遮り、名前を呼ぶ。彼女はきょとんとして首を傾げた。

「二十六歳、もうなった?」

「え、ああ、うん、六月生まれだから」

「丸十年経ったんだね」

「そうだね、若かったね」

「十年も経ってお互い大人になったし、昔の話もしたし」

「うん?」

「今度は、今現在の話をしませんか?」

 言った。情けないくらい鼓動を速めながら、ついに言った。

 彼女はすぐにその意味を理解したようで、右手に持った携帯電話をぎゅうっと握り締め、ゆっくり、こくりと頷いた。そして真っ直ぐに僕を見つめて「今度、ごはん食べに行こうか」と言ってくれたのだった。


 馬と言われて十年、鹿と言って八年。長い年月を経て、僕たちはようやく、連絡先を交換した。改めて握った彼女の手もびっしょりと濡れていて、勿論僕の手もびしょ濡れで、顔を見合わせて笑った。






(了)