向こうに行くまでまだ時間があるから、何かお礼をさせてほしい。欲しい物でもやりたいことでも、できる限り協力する。向こうに行ったらなかなか帰って来れないし、気軽に会えなくなってしまうから、その前に何かしてあげたい。
そう伝えると、吉野くんと崎田さんは顔を見合わせ、ふたり同時にこてんと首を傾げたあと「何もいらないよ」「なんもない」と言った。
「そんなこと言わないで。何かお返しをしなきゃ、わたしの気が済まないよ」
そう言っても、何も思い浮かばないようだった。
せっかく大人になって、今だったら恩が返せると思ったのに。
あんまり高いものは無理だけど、欲しい物があったら言ってみてよ。ペア宿泊券とか本とかゲームとか。遊園地の年間パスポートや、家電でも良い。
例を挙げても、ふたりは答えてくれなかった。
そうしていたら吉野くんが「中谷」とわたしの名を呼ぶ。
「欲しいものはないよ。金は、向こうでの生活のために取っときな」
それを聞いて崎田さんも同調する。
「そうだね。中谷さんは恩返し恩返しって言うけど、物で返さなくても、中谷さんが楽しい生活を送って素敵なひとと出会って結婚するって話を一番にしてくれた。それだけで充分だよ」
「まあ、中谷のお陰でボタン付けも雑巾作りもできるようになったし」
「そのわりに吉野くんって部屋の片付けできないよねえ」
「俺が入ったのは手芸部であって、家事部じゃねえだろ」
「まあ、そうね」
ああ。このひとたちは、本当に……。
恩を物で返そうと思っていた、むしろそれしか考えていなかったことが恥ずかしい。
この年になっても、ふたりには教えられることばかりだ。
ようやく納得して、でもまだ少し納得できなくて曖昧に頷くと、崎田さんはふはっと笑ってわたしの背中を撫でる。
「じゃあこうしようよ。出発までまだ時間があるなら、三人で休み合わせて温泉でも行こうよ。鳴子でも作並でも秋保でも遠刈田でも、どこでもいいからさ。県内ならすぐ行けるでしょ。思い出作ろ」
そう言ってもらって、ようやく素直に頷いた。
このふたりと簡単には会えなくなってしまうのが、少し寂しく思えた。
ここ数年は会えていなかったけれど、県内にいるのと国外にいるのとではわけが違う。メールやボイスチャットで簡単に連絡は取れるけれど、遠く離れてしまうことにかわりはない。
それでもわたしはドイツに行く。
ふたりを残していく。
それが多分、ふたりへの一番の恩返しなんだと理解した。
わたしの人生を変えてくれた、愛すべきふたり。ふたつの愛。その愛を置いて、わたしは行く。
ふたりの心配はしていない。このふたりならきっと、すぐに素敵な相手を見つけて、嬉しい報告をくれるだろう。
どの温泉地に行くか議論するふたりの様子を眺めながら、わたしの心はすっきり晴れやかだった。
もしかしたらこんなにすっきりした気分になったのは、生まれて初めてかもしれない。
(了)