教室内はすぐにいつもの様子を取り戻し、何事もない平和な一日を送っていたけれど、わたしはあの衝撃を忘れられなくて、心がざわついたまま放課後を迎えた。
部室棟の光景もまた同じ。階段を上ってすぐ、ギター部の部室の前に崎田さんがいた。
「中谷さん、こんにちは」
崎田さんの笑顔もいつも通りだった。部室の中でギターを抱えていた吉野くんも、いつも通り「どうも」と言って会釈した。
まるで、昨日のことも、今朝のこともなかったかのような雰囲気だった。
わたしもふたりに会釈して「こんにちは」と返したけれど、崎田さんは穏やかな顔で首を傾げ「今日元気なかったね、大丈夫?」と。
元気がない、というより、心がざわついているだけだ。
平穏なクラスで起こった些細な事件。でも、ほとんど誰とも関わらない、平凡で平穏で平らな日々を送っていたわたしにとっては大事件。しかもわたしは目撃者でもあった。それを「矢田さんのためになけなしの勇気を絞り出せない」という理由で黙っていたことに、大きな罪悪感があった。
「何か悩み事?」それでも崎田さんは優しい。
あの事件を解決したのはこのふたりだ。目撃者でも関係者でもない、ただのクラスメイト。矢田さんの背中をぽんとたたいた様子から、何かしらの交流があったことは想像できるけれど、このふたりが矢田さんと仲良く会話しているところなんて見たことがない。そんなレベルの関係で、簡単に協力ができる。そんな優しい人たちなのだ。
その優しさに甘え、わたしはつい、このざわつきを口に出していた。口に出すことで、少しはこの気持ちが治まるかもしれないと思った。
「今朝のこと、なんだけど……」
そう切り出すと、崎田さんは「ごめんね、急に。気まずかったよね」と苦笑した。
でも違う。そういうことじゃない。
「実はわたし……知ってたの。矢田さんは盗っていないって」
それを口にしたことで、少しだけ心がすっとした。さらに話せばもっとすっきりできるかもしれない。そんな考えが頭をよぎった時には、すでにわたしの口は動いていた。
「わたし昨日の昼休み、女子トイレにいて。矢田さんはわたしのすぐ後ろにいて。グループの女の子たちが手洗い場を占領していたのを矢田さんが注意して、混雑が解消されたんだけどね。そこから教室、視聴覚室まで、わたしは矢田さんの後ろを歩いていた。視聴覚室から教室に戻るときもすぐ後ろにいたから、だから矢田さんがアイシャドーを盗る暇なんてなかった。それを知っていたんだけど、昨日揉め事があったときは、どうしても言い出せなくて……。矢田さんとは一度も話したことがないし、どんなひとなのかも分からない。ちょっと近寄り難いイメージがあるし、わたしとは別の世界のひとみたいで……。わたしには、あの場で発言する勇気がなかった。使い方も分からない勇気を、一度も話したことがないひとのために使うのには、もっと勇気が必要で……。だから黙っているしかなかった……。だからまさかふたりが誰の仕業かつきとめるなんて。崎田さんはまだしも、無口な吉野くんまで。わたし、本当に驚いちゃって……」
わたしの言葉を、吉野くんと崎田さんはただ黙って聞いていた。
昨日の出来事を話したことで、随分気持ちが楽になった。普段こんなに話すことはないから少し喉がだるくなったけれど、あまり気にならない。
わたしは興奮していたのだ。
だとしても、この辺りでやめておけばよかったのに。
「で、でも矢田さんが疑われたのも仕方ないなって思うの。いつも化粧してるし、雰囲気がちょっと恐くて、あまり良い印象はないから……。あのグループの子たちを注意したときだって、邪魔なんだけどってストレートに言ってたし……。もうちょっと言い方ってあるじゃない」
言った瞬間、吉野くんが顔を上げ、崎田さんの表情が曇った。
そうなってから、わたしが興奮に任せてひどいことを言ってしまったと気付いた。
「中谷は、そういうふうに言えるほど、矢田のこと知ってんの?」
吉野くんの言葉で、かあっと顔が熱くなった。そしてすっとしていた心が、さっきよりも重くなり、どんどんざわついていくのを感じた。
「あ、あの……わたし……」
声が震える。
「確かに矢田さんは化粧もしてるし口数も少ないからそういう勘違いをされがちだけど。話してみると楽しいひとだよ」
崎田さんの言葉を聞いたら足も震え出して、肩にかけていたバッグの持ち手を、ぎゅうっと握り締めた。



