恋は人を変えるという(短編集)




 とぼとぼと部室棟へ向かうと、今日もまたギター部の前に崎田さんが立っていた。
 わたしに気付くと崎田さんは「中谷さん、こんにちは」と笑顔を見せる。わたしも軽く会釈をして「こんにちは」と返した。

 この半月で、わたしは挨拶と簡単な雑談くらいならできるようになっていた。ふたりが毎日、放課後に話しかけてくれたおかげだ。ただしそれは吉野くんと崎田さん限定のこと。他の同級生たちとはまだ上手く会話できない。

 ギター部の部室を覗くと、吉野くんも顔を上げて「どうも」と言ってくれた。

 一日の間で、一番好きな時間。一日の間で、わたしが唯一家族以外の誰かと話せる時間。

 なのにわたしの脳裏には、さっき考えていた卑怯で他力本願な考えが浮かんで、なんだかとても申し訳なくなって。軽く会釈しただけでこの場を終わらせ、さっさと部室に引きこもった。

 部室の外からは、崎田さんの楽しそうな声が聞こえてくる。

 さっきのわたしの態度を悪く言われてはいないだろうかと気になって、戸に近付いて聞き耳をたててみたけれど、そんな様子は全くなかった。
 最近読んだ本の話をしているみたいだ。
 崎田さんはあらすじを簡単に説明して、吉野くんにも読んでもらおうと思っているみたいだけど、吉野くんは「で?」「その後は?」と続きを促す。ついに結末まで話したあとで、吉野くんの「ふーん、それ図書室にある? 読んでみるわ」と。ネタバレオーケーなタイプなのか、と笑ってしまった。

 でもすぐにまたあの考えが浮かんで、しかもふたりの会話を立ち聞きした罪悪感で、さっきよりもずっと落ち込んだ。


 こんなことをしている時間があったら、ふたりに声をかけてしまえばいい。手芸部に入らない? と言ってしまえれば、優しいふたりはきっと頷いてくれる。
 必要なのは、ほんの少しの勇気。十七年間、心の奥底にしまい込んで、使いもしなかった勇気を取り出せれば。それだけ。それだけでいいのに。

 今のわたしには、どうすればその勇気を取り出せるのか。それすら分からなかった。