それから数日。あんなことを言ってしまったのに、吉野さんは驚くほど普通だった。気まずい思いをしているのはわたしだけ。

 レジカウンターの中から吉野さんを見つめ息を吐くと、どうした? と高橋さんが声をかけてきた。相談するかどうか迷ったけれど、彼女の誕生日の件でひどいことを言ってしまった、と白状した。高橋さんは柔らかい表情で笑って、ぽんぽんとわたしの肩をたたく。

「彼女と仲直りしたみたいだよ」

「え?」

「いや、そもそも喧嘩してたわけじゃないみたいだけど。今度数ヶ月遅れの誕生祝いするって」

「聞いたんですか?」

「まあみんなに言い触らしたの俺だから。後日談を言い触らすのも俺の役目かなって」

「そうですか……」

 ほっとした反面、顔も名前も知らない吉野さんの彼女が羨ましくて、妬ましくて、悔しくて堪らなかった。誕生日やフルネームを知らなくても、きっと彼女はすごく愛されている。彼女しか知らない吉野さんの素顔を毎日独占している。わたしだって毎日顔を合わせているのに、知っているのはフルネームと年齢とギターが上手いってことだけ。

 散々妬んだあとは、情けなくなった。吉野さんが言ったことは正しい。誕生日やフルネームを知っていたからって何になるんだ。偉くも何ともない。それよりも、好きな食べ物や好きな映画を知っていることのほうが大きいじゃないか。人は誕生日や名前と付き合うわけじゃない。その人の日常と付き合っているのだから。





 その日の夜、急に恋愛映画が観たくなって、レンタルビデオ屋に向かった。これでもかってくらいのハッピーエンドがいい。せめて二時間だけでも幸せな気分になりたい。

 タイトルを順番に見て回り、気になるタイトルを手に取ると、柊さん、という声が聞こえてはっとした。顔を上げると、通路の先に見慣れた男性と見知らぬ女性がいた。吉野さんと、きっとあれが吉野さんの彼女だろう。

「ありましたよ、なぜかコメディーのところに」

「でかした」

「もう、柊さんが観たいって言ったのに全然探さないから、端から順に棚回ったんですよ」

「探し物は桐のほうが得意だろ」

「探す素振りくらいしてください」

「代わりにおまえが観たいって言ってたマイナー映画探しといた」

「やった、でかした柊さん」

「顔上げたら偶然目の前にあった」

「それ探したうちに入ります?」

「入るだろ」

「微妙ですよ」

「微妙か」

「労力の分、わたしの映画が先ですからね」

「分かった分かった」

 言いながら吉野さんは優しい顔で笑って彼女を見下ろしたから、どきっとした。

 あれが、彼女しか知らない吉野さんの素顔。無口で無表情の吉野さんが、彼女の前ではあんなに喋って、あんなに優しい顔で笑うなんて。敵わないな、本当に……。

 もう映画を観る気分ではなくなってしまって、持っていたDVDを棚に戻し、ふたりにばれないよう、静かに店を出た。

 家に帰る前、近所のコンビニに寄って、普段は絶対に飲まないビールを買った。おつりと、もう何年もお財布の中で眠っていた二千円札をレジ横の募金箱に入れると、少しだけ心が軽くなったような気がした。




(了)