柊さんの言い分は分かる。数ヶ月ほぼ毎日一緒にいたけれど、細かい情報がなくてもやってこれたし、その他の情報は自然と入ってきた。例えば好きな食べ物は餃子とわかめのお味噌汁。好きなお酒はビール。好きな映画のジャンルはアクションで、漫画はほとんど読まない小説派。お風呂では首から洗うし、好きな体位は対面座位。頬を撫でてくればキスする合図で、腕を枕に横になれば営みの合図。

 これだけ知っていればもう充分だという気もするけれど、それでもやっぱり本名や誕生日や血液型すら知らないというのは寂しい気がする。わたしはこの数ヶ月の柊さんしか知らないけれど、わたしと知り合う前の約二十七年間、柊さんがどんな人生を歩んできたか知りたい。

 こんなこと、恋人でもないわたしが考えるべきではないのかもしれないけれど……。


 柊さんの部屋に行くのをやめた。どんな顔をして会えばいいのか分からなかったからだ。予想通り柊さんからの連絡はなくて、まあそうだろうなと思う反面、寂しくて仕方がない。まさかこんなことで関係が崩れてしまうなんて。

 気の抜けた数日間を過ごして、夕飯を作る気にもなれず、コンビニで買ったお弁当と共に帰宅すると、部屋の前に柊さんがしゃがんでいた。

 その瞬間、思わず泣いてしまいそうになった。

 柊さんはわたしに気付くとゆっくりとした動作で立ち上がり、来て、とだけ言い腕を引く。いつからここで待っていたのか、その手は驚くほど冷たかった。

 なにやら荷物でいっぱいのこたつに着席させられ、ようやく腕が離された。冊子やアルバムらしきもの、紙の束に封筒、CDまでもが山のように積み重なっている。首を傾げながら柊さんに視線を向けると、彼はそれを見るように促す。

 素直に従って、山のてっぺんにあった封筒を開けてみる。中に入っていたのは、戸籍表だった。わたしはここでようやく、柊さんの誕生日を知った。そればかりか、本籍地や出生地、届け出日やご両親の名前まで知ってしまった。

 その下にあった冊子は中学時代の卒業文集、その下には高校時代の卒業アルバム、紙の束はテストの答案用紙だった。柊さん、思いのほか字が汚い。他にも小さい頃のアルバムや学生時代のアルバムが数冊ずつ。柊さんは幼少期から表情が豊かではなかったらしい。無表情の子どもに思わずふき出すと、隣にいた同じく無表情の彼は「ここにあるのが俺の人生だよ」と囁くように言った。

 高校時代の卒業アルバムを開いてみると、部活動の集合写真で二度柊さんの姿を見つけた。ギター部と手芸部。バンドを組んでいたくらいだしギター部は分かるけれど、手芸部って! 可愛い女の子と優等生っぽい女の子は分かるけれど、柊さんまでぬいぐるみを持って写真に写っているなんて! 似合わないけれど、これもちゃんと柊さんの人生か。


 次に壊れかけのCDケースを手に取った。

「このCDは?」

「これは学生の頃に自主制作したアルバム」

「アルバム出すって、本格的にやってたんですね」

「大学行ったら時間が合わなくなって解散したけどな」

 ケースを開け、色褪せた歌詞カードを開いてみると、収録されている五曲の歌詞と、作詞作曲吉野柊の文字。ああ、勿体ない。外部有志として演奏したらしい文化祭、見に行けば良かったな。解散してしまったのなら、もう柊さんたちの音はCDで聴くしかないなんて。知らないということは実は物凄く恐ろしいことなのかもしれない。

「で、だ」

「はい?」

「俺はギターも弾ける」

「いや、はい、それは友人から聞きました」

「今弾くから」

 言いながら立ち上がった柊さんは、なぜかキッチンから黒いギターケースを運んで来た。この部屋にそんなものがあったなんて、全く気が付かなかったけど、どうやら今まではなかったらしい。

「前隣に住んでたおっさんがえらい地獄耳の上失業中で、ギター弾く度怒鳴りこんで来てたから、ずっとうちの店のスタッフルームに置いてた」

「今弾いちゃって大丈夫なんですか?」

「もうおっさん引っ越したし大丈夫」

 ケースから取り出したアコースティックギターを抱え、柊さんは荷物の中から何かを探し出す。覗き込んでみるとそれは譜面だった。殴り書きをしたような汚い字で歌詞やコードが書いてある。そして合図もなく突然、ギターを弾き始めたのだった。