店長が既婚者であることを知ったのは、この店で働き始めて半年が過ぎた頃のことだった。

 左手の薬指に指輪があるのはすぐに気付いたけれど、結婚指輪にしてはやたらお洒落だから、アクセサリーとして付けているのだと思っていた。同じようなデザインのブレスレットも付けていたし。それに毎日遅くまで休憩室に残ってスタッフたちとカードゲームに興じ、晩飯はコンビニかなあ、なんて嘆いていたら、誰も既婚者だなんて思わないだろう。

 それを知ったのは、休憩中のなんてことない雑談の最中。五つも年が離れているのに学生時代に聴いていた音楽が同じで、やたら盛り上がった直後のことだった。

「崎田さんならうちの嫁とも話が合うかもなあ」

 わたしは笑顔のまま固まった。机の横に置いてある本棚から本を選んでいた店長は、わたしの表情に気付かないままこう続ける。

「俺に付いてこっちに引っ越して来たのはいいんだけど、なかなか友だちできなくて寂しいって言っててさあ。崎田さん良かったら友だちになってあげてよ」

 好きな相手の奥さんの友だち、だなんて。そんなことが、わたしにできるだろうか。

 ……無理だ。無理に決まっている。お腹の中に羨望や嫉妬心を隠したまま、一体どんな顔をしてどんな話をすればいいんだ。

 仲良くなればいつか必ず店長の話を聞く日が来る。普段の店長がどんな感じなのか聞かされたって、みじめになるだけじゃないか。

 それでもわたしは、好きな相手からの頼みを断ることもできず、おかしく見えないよう精一杯笑顔を張り付けて、いいですよ、と頷いた。

 頷いたあと、無性に泣きたくなった。悔しくもなって、腹立たしくもなった。店長の奥さんと仲良くする気なんて微塵もないのに、店長の頼みにへらへら頷いてしまったのが、悲しくて悔しくて腹立たしかった。

 そりゃあ趣味は合うだろう。同じ人を好きになったのだから。でもわたしは好きな相手の奥さんと楽しくおしゃべりできるほど図太くないし、奥さんから店長を奪ってやろうという大それたことをしでかす勇気もなかった。


 店長に奥さんがいると知ってから、ありきたりだけどこんなことを考えていた。

 出会うのが少し遅かっただけ。こんなに話が合うのだから、わたしが先に出会っていれば、可能性はゼロじゃなかった。

 そう思うことで、自分を慰めようとしていたのだ。

 だけど実際奥さんを見たら、そんな慰めすらみじめで情けなく思えた。店長と一緒に店に来た奥さんは、わたしなんかじゃ太刀打ちできないくらいの美人だったからだ。

 すらっとした長身で大人っぽい服を着こなし、化粧も丁寧。ふわふわした髪からは甘いにおいがした。

「崎田さん、これうちの嫁」

「初めまして。あなたのことは旦那からよく聞いてるの。よろしくね」

 加えて声まで綺麗。透き通るような声というのはこういう声のことを言うんだろう。

 完全敗北。どうにか平静を保つためぎゅうっと拳を握り、親指の爪を人差し指に突き立てながら笑顔を作った。


 奥さんがひとりで店内を回っているとき、こっそり店長に近付いて隣に並び「奥さん超絶美人ですね」と声をかけた。店長は奥さんを目で追いながらふっと笑って「まあね」と言った。

 今まで見たことがないような表情をしていた。
 
 なんだか無性に、ピアスをあけたくなった。この胸の痛みを、外部からの痛みで紛らそうという安易な発想だった。