そうだ、私も歌手が壇上に上がってライトを浴び、自己紹介をした時は会場で聞いていた。低い声が魅力的なシャンソン歌手────────

「スパイダーマンが歌手なりそのマネージャーなりが目当てなら、ここへ戻ってくるだろう。あの二人は壇上から降りて、さっきは隅で出版社から飲み物をサーブされていたからな。・・・会場に戻るか?」

 桑谷さんが何かを考えるように唇を人差し指でなぞる。目は細められて、不機嫌そうなオーラが漂っていた。

 私はちょっと考えて、そうねと頷く。対象が彼らなら、その側についていればまた蜘蛛男に会えるだろうって思ったのだ。

 隣からまたため息が聞こえるのを無視して歩き出す。まだ首の後ろが痛かった。畜生、あのバカ野郎。次にあったら覚えてろよ。

 会場に戻ると、ぐるりと首を回して歌手とそのマネージャーを探す。桑谷さんが観察していたように、確かに彼らは舞台の隅に作られたテーブルで、楽しそうに談笑しているようだった。仕事が終わって安心しているのか、歌手は明るく華やかな笑顔だった。相手をしているのはこの出版社の編集長だ。一度挨拶をしたことがあるから覚えている。

 私が少し近づこうとそちらに体を向けたとき、後ろから、まり、と呼ぶ声がした。

 振り返ると弘美。元々お酒が顔に出ない体質であるから、彼女がどれくらいアルコールを口にしているかは判らない。驚いた顔でこっちにくるのを私は笑顔を作って迎えた。

「まだ居たのね!さすがに帰ったと思ったけど・・・。あら?ダンナ様は?」

「え?」

 さっきまで隣にいた桑谷さんが、姿を消していた。弘美が近づくのを見て消えたのか、何か他の用事があったのかは知らないが、彼はあまり心配する必要がない。というわけで、あっさりと肩を竦めてみせた。