結局、居残りは先生が呼び出されて、30分で終わった。
すごくラッキーだけど、やっぱり…次の英語も、赤点決定かも。
ガラガラと教室の扉を開ける。
赤い夕焼けは、触れたら本当に焼けてしまいそうなほどで。
こんなところで告白されたら、ロマンチックだろうなぁ、なんて、そんな呑気なことを考えていた。
思い足取りで階段をおりようとした時、かすかにピアノの音が聞こえた。
何となく、聞き覚えのあるメロディー。
普通なら、気味が悪いと思うけど、これは明らかに違う。
全ての音が正確に、でも、色鮮やかな音色。
曲名を知らなくても、音楽の知識なんて無くても、この音が、これを弾いている人が、素晴らしいことぐらい分かる。
私の足は自然と音の方へ向かった。
階段を通り過ぎて、少し歩いたところに、音楽室がある。
分厚い扉の向こうから、軽やかな音色が聞こえる。
高鳴る鼓動を落ち着かせようと、2、3度、深呼吸をした。
扉に手をかけて、重い扉を押す。
くぐもっていた音が、透明で、ハッキリした音に変わる。
音楽室の1番前にある黒く光るグランドピアノ。
それを弾いている本人は、逆光でシルエットしか見えない。
何も言わずに入ってきた私に気づかないのか、演奏は止まらない。
静かにドアを閉めて、ピアノの方へ近づいた。
その途端、私は息をのんだ。
ピアノを演奏しているのは、男の子だ。
黒髪が印象的で、鍵盤を叩く指は長くて細い。
伏せられた長い睫毛が頬に影を落としている。
思わず見とれていると、ピタリと演奏が止まった。
ゆっくりとこちらを振り向いた瞳と、まともに目が合う。
「君は…誰?」
低くいけど、、耳触りのいい声。
切れ長の目が、真っ直ぐ私を見つめてくれる。
少し、緊張してしまう。
「せいら。」
「天宮?カノンさん?」
「う、うん?」
「天宮さん、か。何年生?」
「2年だよ。」
「俺と同い年だ。これからよろしくね。」
「えっ?」
思わず、声が裏返ってしまった。
顔が火照っていくのが分かる。
思わず、顔を逸らしてしまった。
…今は、目を合わせられない。
「月影(つきかげ)悠真(ゆうま)。俺の名前。」
月影、ゆうま君。
「いい名前だね。」
「んーん。全然。」
「何で?」
「花音ちゃんの方がいい名前。似合ってるよ。
あ、そろそろ帰んなくちゃ。
見つかったらやばいし。
花音ちゃんも、早く帰ってね。
暗くなると危ないから。」
そう言って持ち上げた鞄は、この学校のものではない、紺色のスクバ。
制服も、薄茶のブレザーに、濃い赤のネクタイをしている。
私立の学校のような、エンブレムがついている。
でも、今は6月。
衣替えは既に終わっている。
こんな時期にブレザーなんて。
「ゆうまくんの学校の制服?」
「明日から、ちゃんとこの学校の制服着てくるよ。
前いた学校、夏服とかなくてさ。ブレザー脱ぐだけ。
だから、ちょっと楽しみなんだ。」
柔らかく微笑んだ顔は、少し、幼く見えて、ドキッとした。
さっきまでの大人びた雰囲気とは全然違って。
「また明日。」
「うん、またね。」
些細な約束を交わして、ゆうまくんは音楽室を出ていった。
遠くから、少し駆け足で階段を降りる音が聞こえる。
何気なくピアノを見てみると、使い古された青いファイルが乗っていた。
手に取ってみると、その裏に、綺麗な筆跡で『tsukikage』と書かれていた。
ゆうま君が忘れたのだろう。
…明日返そう。
ちょうど話すきっかけが出来たことが、少し嬉しい。
ゆうま君を思い出そうとすると、顔が熱くて。
その意味は自分で十分理解していて、1人で小さくため息をついた。
こんな些細な出来事で、君のことを『好きになった』なんて。
これが一目惚れなんだって、素直に思った。