「珠子は部長に奥さんがいると思っているはずよ。だって、誰もがそう思い込まされたんだから!」

「その方が珠子が安心できると思ったんだ。」

「何に安心するの?何のために?」


仕事を休んでまで洋介の看病をした珠子の気持ちを察した郁美は、こんな騙し討ちの様な扱いに珠子が可哀想になる。
珠子が哀れで洋介のやっていることが残酷に見えてしまう。


「離婚した夫に口説かれる心配はないし、俺に妻がいれば過去は過去として葬ることができる。」


郁美は握りしめた拳を震わせていた。
そして、何も知らない珠子が哀れで涙が出そうになった。

一時は愛し合って結婚しただろうに、今では平気で嘘を吐いているとはあまりにも酷いと郁美は洋介を蔑むような目で見つめた。
そして、洋介を睨み付けるとバスへと向かった。

洋介はため息を吐くとゆっくりとバスの方へと歩いた。
しかし、その足取りはとても重々しく中々先へは進まなかった。


一方、何も知らない珠子は社長の車に乗せられて宿泊する旅館へと向かっていた。

運転席との間の仕切り板を上げられ二人だけの空間になっていた後部座席では俊夫が珠子を口説いていた。

俊夫は珠子の手を握りしめ肩を抱き寄せては珠子の目を見つめている。

珠子が顔を反らそうとすると顎を掴まれグイッと俊夫の顔へと向けられる。


「そろそろ珠子の良い返事を聞きたい」


俊夫は断りの返事を聞こうとしていないのを珠子には分かっていた。

きっと、この人は首を縦に振るまで諦めないのだと珠子は半分呆れていた。

けれど、不思議なものでこんなに思われると嫌な気持ちにはなれなかった。