305号室の扉の前であたしは足を止める。
すぐ後ろで、同じように足を止める渚くんの気配がした。
「ここには…あたしのお母さんが入院してるの」
あたしは、305号室の扉を真っ直ぐに見つめたまま、渚くんに話しかけた。
「ここへ入ったら、あたしの名前は出さないでほしいんだ」
「…?」
「約束、これだけは守って」
あたしは、自分で言って苦しくなった。
お母さんにあるのは、お父さんに帰ってきてほしいという夢が見せた幻覚だけ。
娘の篠崎 ほのかという娘がいる事の方が、幻なんだから。
「ほのかちゃん……ほのかちゃんは、何を…」
「行こう、渚くん」
心配そうにあたしを見つめる渚くんから視線を反らして、あたしは病室の扉を開けた。


