「だが、王宮がある龍州は、王の直轄地。
王の御前で戦火の狼煙を上げることは、無礼千万とされ、そのため戦時中にあっても王都貴晏(きあん)だけは辛うじて均衡を守られていた。」

朱雅は、鼻でクスクスと嘲り笑う。
 
「フッフフ。不思議だよな。王位を巡って熾烈な争いをしながらも奏烈王への敬意だけは失わなかった。法も秩序も失われこの国が崩壊しかけても、王を誅することを選ぶものは、誰一人もいなかった。皇子も貴族も豪族も民草のすべてがな」


朱雅は、そう言うと蘇芳を見た。
その真朱色の瞳はどこか憂いを帯びて冷たい。

「何よ、それ?王位が欲しかったら、王様を殺して玉座を得れば済んだ話だとでも言いたいの?」 

「蘇芳。玉座とはなんだ?」
朱雅は、唐突に聞いた。

「なっ!?何よ藪から棒ね。はぁ···玉座は、王の椅子でしょ。君主が座る椅子。」

蘇芳の答えに、朱雅は頷く。

「そう···玉座はただの椅子だ。君主が座るというだけのただの椅子だ。ではなぜ皇子たちは玉座にこだわった?」

朱雅の問いに、蘇芳は少し面倒くさそうに答える。
「これは、一体何の講義なのかしら?皇子に生まれたからには、王になりたいと思うものでしょ?それにそういうふうに焚き付けた人間がいるわけだし。玉座にこだわるのは仕方ないんじゃなくて?だから王位に着くため玉座を巡って権力争い···?」

待て。と蘇芳は思った。
何かをかけ違えている。そんな気がした。

玉座とはなんだ?
皇子はなぜ玉座にこだわったのか?
という朱雅の問いが意図するものは。

朱雅が蘇芳に聞いているのは、何も玉座そのものの話ではない。

朱雅は黙って、何かに感づき始めた蘇芳の様子を見ている。


ふと、蘇芳の頭に朱雅の言葉が浮かぶ。

『王位戦争は醜い権力争いが招いた王族の負の歴史だ。』
蘇芳はその言葉筋を辿る。


自分の意思で動いた皇子は三人。
あとは傀儡。
そもそも王位戦争は皇子たちが、というよりその周りの人間が、自分の皇子を王位に着かせるために権力争いをして、それが招いた戦争だったと朱雅は言わなかったか?

なぜ自分の皇子を王位に着かせたいと思うか。それは当然、自分たちの保身のため。
彼らはこの奏国で権力を握り、自分の欲しいままにしたいと考える、そういう醜い欲望の塊。

さしずめそれが、彼らが玉座を欲した理由···


「玉座にこだわったのは、ただ権力を奮いたかった。彼らにとって玉座は、権力の象徴。この国を欲しいままにしたかった。それが出来る唯一の地位が君主。」

その蘇芳の答えに、朱雅は小さく笑う。

「玉座を頂けば、一国を欲しいままに出来る。ただの椅子にそれほどの力があるというのは、いささか問題だな。」
朱雅は、湯呑みを長卓の上で廻し遊ばせながら、半ば嘲るように言った。

「いいえ、ないわ。玉座は単なる椅子であって権力の象徴ではない。本来、権威を持つのは君主自身。ならば、君主こそが権力の象徴、いえ権力そのものだと、貴方はそう言いたいのでしょう?」

蘇芳の答えに、朱雅はようやく意を得たりと小さく安堵の息を吐いた。

「良くできました。その答えに辿り着かなかったら、筆頭格失格。もう一辺青士からやり直させようかと思ったのだが安堵した。」

そう言うと、朱雅はニコリと作り笑いをした。
蘇芳は、それを聞いて危なかったと肝を冷やす。たかが上司の意図する答えが言えなかったくらいで筆頭格が降格するなんて笑い者も良いところだ。惨めすぎて笑えない。


「さてそれがわかったなら、お前が私にした質問の答えも、おのずと見えてきたのでは?」

そう聞かれて、蘇芳は答えた。

「ええ、奏烈王を誅するものは奏国のどこにもいなかった。それは彼のことを誰もが権威ある君主として認めていたから。権威そのものに他ならない存在だった。とすれば殺して済む話と貴方は言いたいのじゃないわね。国が崩壊していくのに、時の王の権威は決して消えはしなかった。ということは、奏烈王は君主の中の君主だったということかしら?」

というと、蘇芳は調書をバサリと長卓に放る。

「玉座を得るため国を壊しても、玉座を得るため君主を殺すものはいなかった。自分の息子たちが国を荒らしている傍らで、病に臥せりながら自分が築きあげた大国が悲鳴を上げて崩れていくその羽音をどんな気持ちで聞いていたのかしらね?止めたくても自分はもう動けず、もどかしくて、それはそれで辛くて切なくて、こんな思いするくらいならいっそ誰かに殺してほしいと願ったかもね?」

蘇芳の言葉に、朱雅は静かに目を伏せた。


奏烈王は、絶対服従の王権政治を打ち出して権威や権力を振りかざして恐怖で国を支配した覇王。従わぬ者には容赦なく苛烈な粛清を行った。
 その一方で、彼はあらゆる制度改革を行い悪法を廃し、身分や性別などの属人的要素に関係なく、能力や技術のある人物を進んで官吏に登用するなど、人の実力を重視する成果主義実力主義の人物であった。

覇王であると同時に、男も女も貴族も平民も分け隔てなく受け入れ、奏国の規律を整え、国を守り民を思う名君とも評された。

だが、朱雅はクツクツと笑う。

「蘇芳は優しいのだな。嘆いていたと?私はそうは思わない。奏烈王のことだ。憐れな愚か者と、嘲笑っていたさ。玉座という名の権力を模した偶像なんぞに惑わされて、躍らされている愚かな俗物たちはまさしく愚の骨頂だろう?···ふっはは。奏烈王は高々笑ったか···はたまた、ほくそ笑んでいたかもな」

そう言って、朱雅はクツクツと嘲笑する。

朱雅のその言葉や仕草はどこか楽しそう、でもあり同時にどこか寂しそうにも見えた。