彼がスプーンを止めた。
私に向けてくれた笑顔は暖かくて、やさしくて、柔らかかった。

目尻と口の端っこを少し上げて、薄く微笑む。

「ねぇ、咲耶」

「なに?」

自分の涙声に、その時初めて気がついた。

「なんで泣いてるか、そろそろ話してもいいんじゃない?」

その時の彼のまっすぐな瞳がまた、
記憶の鐘を鳴らしてる。

「…へ?」

ふと手でまつげに触れると、水滴がとめどなく溢れてきた。

私、泣いてる。
なんでかは、わかんない。

拓未の白くて細い腕が私の方に伸びてきて、そっと涙を拭った。
「泣いてちゃわかんないよ」
きっとあなたはいつもみたいに、
昔みたいに微笑んでるんだろうけど、涙が滲んで見えない。

「なんで…んぐっ……拓未は…」
嗚咽と混じって声が声になってない。
それでも拓未は私の想いを拾ってくれる。
「なに」

「そんなに私の気持ちが……わかるの……」

心の底からの気持ちだった。

私はあなたを好きになったりしないんだから。
また付き合ったりしないんだから。
心を許しちゃいけないんだから。

だから、もう。

「なんでって……」
拓未がぽりぽり、と頭をかく。

「ずっと咲耶のこと、見てるからだよ?」

さも、当たり前のように。
なんで、そんなこと。

そのとき、心の奥底にあった一つの感情が、はじけた音がした。

「じゃあなんでっ」

私今、絶対顔ぐちゃぐちゃになってる。

いつから私は彼に、5年前を重ねるようになったんだろう。
優しさを求めるようになったんだろう。

…こんなに、
きみがいないと寂しいんだろう。

「なんで5年間…連絡くれなかったの」

この質問だけはしちゃいけないと思っていた。

…だって悔しい。
ずっと、ずっと待ってたみたいで。
ずっと、ずっと期待してたみたいで。

「メールしても電話しても手紙書いても返事は来ないし、いつのまにか引越してるし…」

拓未は深く考え込むように下を向いている。

「私はずっとっ………ずっと、」

信じてたのに。

涙がシチューに溶けた。
冷めちゃうな、とぼんやり考える。

「咲耶」

凛とした声が、部屋に響く。

拓未の目は私だけをとらえていた。

「ごめん」


…なんで

「なんでっ… なんで謝るの?
5年で人は変わるとか言ったくせに、乱暴なキスだってしたくせに、私じゃない女の人の家に泊まるくせに、なんで今さら謝るの?!」

ながい沈黙。

彼は何か言いたそうな顔をして、そのまま黙った。

こんな、こんなつもりじゃなかった。

「私はずっと…」

傷は癒えず。

「待ってたのに」

乾いた唇が涙で湿った時、彼の顔が机を乗り越えてこちらに来て、そっと重ねた。

切なくて、懐かしいキスだった。


私はそのまま駆け出し、家を出た。