昨日はそのまま由香里の家に泊めてもらったので、家には帰っていない。
デスクにうつる自分の目はかなり腫れていて、憂鬱を加速させた。
「北原!」
間宮さんの大きな声にからだが驚く。
「はい!」
部屋から出て行ってしまった間宮さんを走って追いかける。
「お前今日ほんとにぼーっとしてるな。これからフェアの責任者と打ち合わせなんだから、しっかりしろよ」
直属の先輩である間宮さんに怒られ、しゅんとしぼむ。
間宮さんは大柄なので、歩くのも早い。
私は最近履きだしたヒールで小走りに追いかける。
小さめの会議室で、間宮さんと2人で同じサイドに座る。
間宮さんは背も高く、顔立ちも整っているので、女子からの人気も高いが、厳しい人なので、私は少し苦手だ。
今回のように2人で仕事を任せられるのも初めてなので、緊張してしまう。
間宮さんが時計を見て、こちらに声をかける。
「そろそろあちらさんが来る時間だから」
「はい。」
顔は見ないが、間宮さんもきっと取引先に緊張しているに違いない。
「いいか?今回はあちらさんに提供してもらうものの方が多いから、失礼のないようにするんだぞ」
「…はい。」
あがり症の私は、膝の上で手をこすり合わせる。
コンコン
軽いノックのあと、相手が入ってきた。
「失礼いたします。今回提携させていただく責任者の佐々木純也と申します。」
目が釘付けになった私は、固まってしまった。
早い。早すぎる。
そしてタイミングが悪すぎる。
このオフィスで、彼と出会ってしまうのは。
入ってきた2人の男性に、自分の運の悪さを恨む。
隣で間宮さんも名刺をだし、挨拶を始める。
「千賀ホテルイベント企画課代表の間宮英明と申します。この度はよろしくお願いします。
……ほら、北原も早く挨拶しろ」
間宮さんが小声で伝えてくるが、上手く口が開かない。
「ほ…補助担当をさせていただきます。北原咲耶です。よろしくお願い致します」
動揺している私とはうらはらに、彼は涼やかに挨拶を返す。
「連絡係を務めさせていただいております、清水拓未です。どうぞよろしく」
…また、確信犯だ。
きっと彼はここで気まずくなるのを分かっていたんだ。
4人は腰を下ろし、企画の打ち合わせをはじめる。
…しかし、その話は恐ろしく私の耳に入ってこない。
一昨日とは違うスーツをおしゃれに着こなしていて、銀色に光る時計と、きりっとしめたネクタイが彼の華やかな顔立ちを彩っている。
でも、ひとつだけ。
机の下から見える革靴は、汚れていた。
その理由を、私は知っている。
私だけが知っている。
ぼーっとしていた間宮さんが左肘で私をこずき、小声で耳打ちしてくる。
「何やってんだ北原。早く飲み物持ってこい」
すっかり忘れていた。
「すいません…」
私も小声でつぶやく。
その様子を、拓未はじっと見ていた。
「ちょっと失礼します」
私は急いで席を立ち、会議室の横の給湯室へ、お茶くみに行く。
棚から人数分取り出し、コーヒーメーカーに一つずつ入れていく。
拓未は私の家を出たのだろうか。
…きっと、違う服を着ていたのだから帰ったに決まっている。
何より私、平手打ちしてるわけだし。
ひどいことたくさん言ったし。
…たくさん言われたし。
また絶対俺のことを好きなる、なんてずうずうしすぎる。
思い出すだけで腹が立つ。
あたたかい四つのコーヒーカップをお盆にのせていく。
私が彼のことをもう一度好きになるなんてことない。
私は昨日、失恋をしたんだ。
ただ、それだけ。
ふったとか、ふられたとかじゃない。
気持ちを冷ましただけ。
冷めさせただけ。
あとは、給湯室から出て会議室で運ぶだけ。
間宮さんと話していた私を、いつもの目で見つめていた拓未の顔を思い出す。
ざまあみろ。
私だって、拓未のことだけ考えて生きてきたわけじゃないんだ。
周りに、自分を好きになってくれる男性がいなかったわけじゃないんだ。
強がる気持ちがどんどん大きくなる。
拓未だって、私と離れてからきっとたくさんの女の子と付き合って、扱い方を学んで、それでたまたま再会した私に、ちょっかいをかけてるだけなんだ。
完全に、違うことを考えていた。
会議室のドアを開ける時、またヒールに足をくじかれ、思いっきりお盆が引っくりかえる。
「ひゃ」
会議室と廊下の間に、黒いしみが広がる。
佐々木さんが大丈夫かと声をかけてくれて、間宮さんがお前お茶だしもできないのかと、怒鳴る声が遠くに聞こえる。
「ぶくくっ」
悲愴的な画面の奥で、清水拓未が1人、唇の端っこを上げて笑っているのが見えた。
