彼が隣で見ているから動揺して、上手くアイラインが引けない。
ふと時計を見るともう7時で、いつもならとっくに家を出ている時間だった。

トースターの音に反応して、コーヒーを注ぐ。
もういい、今日はお弁当は諦めよう。

パンを取り出し、乱雑にマーガリンを塗る。
そのままコーヒーと共に、ソファに座ってぼーっと私を見ている彼の前に置く。

彼は私の行動に目を丸くした。

「はいこれ食べて」

そして横に鍵を置く。

私はもう仕事のバックを肩にかけていて、できるだけ動揺が伝わらないよう彼に言葉をかけた。

「これ食べたら、鍵を閉めてここを出てって。鍵は私のポストに入れてくれればいいから。スーツ持って帰るの忘れずにね。」

「君は」

彼の声は、恐ろしく澄んでいる。

「なんでそこまで俺に優しくしてくれるの?」

二人の間に、陽だまりのような風が吹き抜け、時間を止める。
私を見つめるそのまっすぐな瞳に、吸い込まれそうになる。

「…わかんない」

私はそう一言告げて、立ち上がり窓を閉めた。

そしてそのままドアを開け、駅へと小走りに駆けた。


***

怒涛のように流れていった朝が終わって、ぎりぎりに会社についた私は、午前の事務を適当にすませ、またお昼休憩で給湯室に来ていた。

「え?! それで一晩、名前も知らない男と過ごしてたってわけ?」
「しーっ!」

由香里は電話越しでも声がよく通る。
「ちょっと由香里声大きいって!給湯室声響くんだから」

焦る私とは対照的に、由香里は冷静である。
「鍵ポストに入れとけとか……あんた不用心すぎるよ、もしそのまま鍵とられたらどうするの?」
「…ごめんなさい」
たしかに由香里の言う通りである。
なんであの涙だけで、私は彼を信じきったのか、そして彼の言う通り、
なんであそこまで親切にしたのか。

「たしかにあの人はちょっとかっこよかったけどね。でもなんか会社で色恋の噂絶えないらしいよ?佐々木さんが言ってた。あんたとは違って、確信犯だよ」
佐々木さんとは一緒に来ていた40代くらいの男性のことだろう。
由香里はいつでも私を心配してくれる。

「あっ、そうだ。あんたに謝んなきゃいけないんだ」
思い出したような由香里の声。
「咲耶、明日誕生日じゃん」
言われて初めて気づく。最近ばたばたしてて自分のことに気が回ってなかった。
「あっ、そうだったね」
「でさ、毎年うちで2人でパーティーしてたけど、明日急なオーディションが入っちゃって…」
「あっ、うん、全然気にしなくて大丈夫だから!」
「うん、だからさ、今日うちで前夜祭しようよ」
ほんとに、由香里は優しい。
「ありがとう。」
顔がついほころんでしまう。
「あっ、その前に、ちゃんとそいつが帰ったか確認するんだよ?」
了解、と返事をして電話を切る。

またお昼休憩の時間を過ぎていた。