パドックで会いましょう

何度顔を合わせても、かつて将来を誓い合ったはずの先生を思い出す事のないねえさんに、おじさんは正体を明かさなかった。

愛し合った日の事は覚えていなくても、競馬場にいるその時だけは、過去も何もかも忘れて、ただの競馬好きの“おっちゃん”と“おねーちゃん”でいる事で、二人は繋がっていられたんだ。

ただ、そこにいて笑ってくれる事が救いだったと、おじさんは涙を流しながら言った。


「なあ、アンチャン…。最後にひとつだけ、お願いがあるねん。」

「……なんですか?」

おじさんは部屋の片隅の引き出しから、小さな箱を取り出した。

「これな…あの子に…おねーちゃんに渡してくれへんか?」

小さな箱の中には、指輪が入っていた。

「おじさん…これ…。」

「安もんやけどな…事故に遭う直前に買うたもんや。それまで幸せな事なんかなかったあの子に、せめて幸せな未来の夢を、俺の手で与えてやりたかった…。」

事故に遭った時に手元に持っていたのか、ベルベット調の深紅の箱には、少しひしゃげた跡が残っている。

「若気の至りっちゅうやつかな…。あの子が俺の記憶を失ってしまった言う事は、俺の事は忘れてしまったままの方が、あの子にとっては幸せやったんかも知れん…。だから、ホンマの事は言わんといてくれ。」

おじさんは僕の手にその小さな箱を握らせて、涙ながらに頭を下げた。


「俺の事は忘れてくれてもええ。でもな…あの子には幸せになって欲しい…。アンチャン、頼む…。あの子を幸せにしたってくれ…。」