パドックで会いましょう

おじさんはペットボトルのお茶をテーブルの上に置いて、ゆっくりと話し始めた。

「来週、この部屋出るんや。身内とはずっと昔に縁切ったし頼れんからな。古い知り合いがやってる施設に移る事になった。」

おじさんは枕元から一枚の名刺を取り出した。

「ホスピス…?」

「俺みたいにがんで手の施しようのないもんがな、静かに最期を迎えるためにある場所や。」

おじさんは来週ここを離れて、その知り合いが運営しているホスピスに行くと言う。

「肺がんやねん。それも末期や。気ぃついた時にはもう手遅れやったし、俺には大金はたいてまで延命するほどの値打ちもないしな。生きててもなんの得もないし、治療はとっととあきらめたんや。」

生きる価値がない命なんてひとつもないのに。

おじさんの言葉を、僕は素直に飲み込めない。

「なあ、アンチャン…。袖振り合うも多生の縁って言うやろ。悪いけどな…こんな死に損ないの話、聞いてくれへんか?」

うつむいて拳を握りしめる僕に、おじさんは静かに話し始めた。

「俺は死ぬのが怖いわけやないねん。ただな、ひとつだけ、心残りがあるんや。」

おじさんはそう言って、本棚の隅に立て掛けられていたアルバムを差し出した。

「俺な、昔、少しの間やけど、中学校の教師やったんや。このアルバムは最後の教え子らの写真やねん。」

そのアルバムは、つい先日、先輩の家で見たアルバムと同じものだった。

「今になって考えたら、あの子を守る手立てなんか、他にいくらでもあったはずやのにな…。あの時は俺もまだ若かったから、あの子を連れて逃げる他に、思い浮かばんかったんや。」


おじさんは静かにそう言って、目元に涙をにじませた。