さと子は数カ月ぶりに自宅の電話番号を押す。最近忙しくて全く電話して無かった為、メモ紙を見ないと親の電話番号を思い出せない。もう少し電話をかける頻度を増やそうと思った。
 受話器の音が鳴る。血の通った家族なのに、久々すぎて緊張する。胸が不用意に早く動く。
『もしもし?』
「お母さん!」
 久々に聞く母親の声は何一つ変わらない。ホッとして、胸に手を当てる。
「久しぶり。ちょっとお母さんの声聞きたくって」
『あらそう? 珍しいわね。何時も私からかけるのに』
 思い返せば、何時も仕事に明け暮れて好きなものをたらふく食べたら眠たくなってすぐ寝てしまう。その繰り返しで、自分から親に連絡をすることなどほとんどなくなっていた。
「ごめんね。全然電話しなくって……」
『何よ今更。気にして無いって。私も趣味の社交ダンス教室で忙しいしね』
 さと子の母親は笑っていた。さと子の固くなっていた表情も緩む。
「あのさ、ちょっと聞きたいことがあってさ」
『何よ?』
「昔さ、段ボールの中に、紫色、の……っ!」
 急にもじもじしだすさと子。なるべく母親に怪しまれないように受話器を話すが、今にも笑いだしそうだ。何せ、真後ろにいたねむたろうが、さと子の体をくすぐっているのだ。
「ご、ごめん……くくっ、待って……」
 急いで保留ボタンを押すと、ねむたろうの肩を叩いた。
「もう! アンタが電話しろって言ったんでしょうが!!」
 ねむたろうは悪びれる様子も無く、ぴったりと体をくっつける。離れてと手で剥がそうとしても、全く離れる気配が無い。
「こんなくっついてられるとお母さんに電話出来無いじゃない」
「何で?」
「意味も分からず、笑いながら親に電話かけてくる娘って相当怖いわよ」
「じゃあ、くすぐらないから」
 これ以上言っても事態は変わらなそうなので、さと子は渋々受話器を手に取る。
「ごめん、ちょっとトイレ行きたくなって」
『アンタ緊張感無いもんね~。で、聞きたいことって?』
「それがさ……ん?」
 今度は耳元がくすぐったい。密着したまま、ねむたろうが眠っているのだ。小さな寝息を立て、鼻や口から僅かに吐息をもらす。その微弱の吐息が妙に色っぽく、息使いで僅かに揺れるさと子の髪が、首筋を何度もなぞってこれまた痒い。
「くっ……」
『アンタ、大丈夫?』
「ごめん……体が超痒くって……。ああ、くそっ! とりあえず話だけ聞いて!!」
 何とかねむたろうを引っぺがしてカーペットの上に眠らせ、むず痒さから解放されたさと子は早口で話し始める。
「前さ、段ボールに紫色のボタン入ってたんだけど、私の服じゃないんだよね。だから、お母さんかお父さんのかなって思って!」
『ああアレね。アンタ覚えて無いの?』
「と言うと?」
『アレはね、アンタが昔友達から貰ったって言ってたんだよ』
「友達……何時の話?」
『確か小学生くらいのことだったっけね。友達から貰ったんだって。面白い友達だって言ってたよ』
「小学生か……」
 さと子ももう20歳をとうに過ぎ、小学生の頃など遠い昔の話だ。過ぎ去る記憶は徐々に薄れて行っている様で、話を聞いてもあまり思い出せない。逆に、母親と言うものは不思議で、娘のことを事細かく覚えているのだ。
「そっか、有難う。それが急に気になってさ。でも、何だか思い浮かばないなー」
『まぁ、アンタも今忙しいもんね。ご飯はちゃんと食べてる?』
「うん。同僚に肉ばかり食うなって言われて、最近はおひたしとか鍋とか食べてるよ。今日は、サバを焼いたんだ」
『あら、体のこと心配してくれるなんて良い同僚じゃない。前電話した時より声も若干高いしね。痩せられたのも同僚のお陰じゃ無い?』
「声で太ってるとかわかるの!?」
『当たり前でしょ。アンタの声、一番聞いて来たのは私なんですからね』
 と言うことは、今まで電話口でもう既に自分の体型を察していたのか。母親とは恐ろしい生き物である。だが、そんな母親にちょっとした感動を覚える。自分のことを何時も気にかけてくれる母親。胸が熱くなった。
『自分の体を一番大切にしなさい。それじゃあ、そろそろ社交ダンス教室の時間だから切るわね』
「有難う。お母さんもね。お父さんにもよろしく」
 電話を切り、テーブルの前に座ると一息ついた。
「全部分かってたんだな……」
 そのまま大の字になって寝転がって天井を見る。視界には真っ白な天井が映っていたが、途中で寝ぼけまなこのねむたろうに変わった。
「変な意地張ったって、さーのこと大事に思ってる人にはお見通しだったりしてね」
「そうみたいね。勿論、アンタもね」
 近い距離にあるねむたろうの額に優しくデコピンをする。
「もっと色んな人に心開いて、ちょっとお話してみたりしてさ、貴方のこと大事に思ってくれる家族みたいな存在、作りな……よぉっ!?」
 さと子が話している途中から、だんだんとねむたろうの瞬きが増えてきた。嫌な予感を大いに感じていたが、目を瞑ったねむたろうは、そのまま顔を近づけて倒れてきた。とっさに横にごろ寝状態で回転移動すると、ねむたろうはガンッと地面に顔をぶつけた。
「あっぶな……この子何時寝るか分かんないからな。気を付けよ」
 せっかく母親からボタンの情報も得たので、さと子は紫色のボタンをもともとクッキーの入っていた缶ケースに入れた。その背後から、ねむたろうは片目を開けてさと子を見つめていた。
「にしても、この子は一体どうしたらご飯に戻ってくれるのかしら」
「そんなに食べたい? オレのこと」
「うん。サバをね。でも、これからダイエットしても全然オッケーよ。お母さんと話したら、元気出て来ちゃったから!!」
「うーん……」
 ねむたろうはしばし考えたものの、大きなあくびをすると、とろんとした目で言った。
「そう言うのはいいや。肉に任せる。じゃ、おやすみ」
 ねむたろうが目を瞑ってその場に横になると、その姿から姿を消し、元のサバの料理に戻った。
「ご飯と一緒に食べたかったけど……さっき食べちゃったから我慢しなくっちゃ! いただきます!!」
 両手を合わせてサバに箸を入れると、ホクホクの白身が現れる。サバは美味しいが、小骨が多いので喉に注意だ。そう言えば、幼い頃は母親が自然と分けてくれていたな。あの時から、母親は自分の身を案じてくれていたのだ。それは時の経過とともに無くなったが、母親は何気ないところで家族への気遣いをたくさんしてくれたのだろう。そんな母親に、ロクに連絡もせず、顔も出さない。幾ら仕送りをしてても、見せるのが恥ずかしい体型になってたとしても、両親にはちゃんと顔を見せて、安心させてあげなくちゃ。
 色々思い出したところで、小骨も大体避けた。後は刺さってももう知らない! さと子は身を口に運ぶ。淡白な見た目からは想像つかない程に脂が口の中に広がって、お肉の脂とはまた違う美味しさだ。こんなにジューシーで頭が良くなるのなら、もっと食べても良いくらいだ。
「ご馳走様でした」
 さと子は両手を合わせて頭を下げた。食器を片づけると、何だか物足りない気分になった。従来の休日ならば、部屋をごろごろして終わりだったのだが、最近はダイエットに明け暮れる日々だった為、何もしないことが勿体なくてどうしようもない。体を持て余すような感覚だった。しかし、ダイエットの付き添いにするには、既におかずを作っておかなくてはならない。幾ら料理が作った時のまま温かいからと言っても、まだ9時半だ。お昼ご飯を作るには早すぎる。
「よっしゃ、掃除でもするか」
 さと子は、普段はおろそかにしていた細々とした場所の掃除を始めた。何気なく始めたものの、案外やってみると熱中する。叩きでほこりを落とし、掃除機で吸い込んだ後、雑巾でちりを完全に拭きとった。
「おうやっとるのうさと子」
「何だ神様、暇なの?」
「暇とか聞くんじゃない。暇だとしても、神様が暇とかそうそう言わんから。それはそうと、掃除ならワシも得意じゃ、手伝ってやるぞ」
「本当ですか!!」
 目をキラキラとさせるさと子に、神様は偉そうに鼻息を荒くし、人差指の伸びた棒をエアコンに向けて指す。
「あそこじゃ。あそこにホコリがおる」
「……はい?」
「あそこじゃよ。ほれ、早く掃除するのじゃ。ワシはホコリを見つけるのが得意だからのう」
「ったくー。それ、掃除って言いませんからぁ」
 小言を言いながらも、さと子は神様の指示通りに熱心に掃除をし続けた。

――現在の体重85キロ