私には、知ってほしい世界がある。
小児病棟という逃げ場のない牢屋の存在を。
そこは真っ白に塗られた真っ暗な世界だ。
考えることは縁起でもない、そして子どもらしくないことばかりだから、大抵楽しい空想にふける癖がつき、それはまた突拍子もない。
日々自分の置かれた状況と痛みに耐えながら、悲しむ親の顔が見たくなくて作り笑いが得意になる。
大人に嘘をついたり騙すことが当たり前になり、最後は自分にも嘘をつくようになる。
そうして気づけば、院外にいる人は例え同じくらいの歳でも違う世界の人間だと、関わってもうまくはいかないと決めつけてしまう。
自分より友だちのお見舞いのほうが多いと、嫌気が差すほどの嫉妬に駆られる。
「お母さん」 と呼ぶ声を押し殺す。
自分より友だちのほうが体調がいいと、「良かったね」 と言いながら、なんとも言えない気持ちになる。
同じように頑張ってるのに、神様は私を見逃してしまったんだと思う。
友だちより自分のほうが体調がいいと、申し訳なくて仕方なくて、本当は嬉しくても心から喜べない。
その余計な気遣いが友だちを傷つけるとわかっていても、素直には喜べない。
医師の「最善を尽くします」 という言葉に悲観的に笑ってしまうことがある。
友だちとの「約束だよ」 はだいたい果たされないことを知っていても、そうして自分にムチを入れずにはやってられないことも多い。
「○○ちゃんも頑張ってるんだから」 は、自暴自棄にさせる。
誰も私個人を見ていない、そう思わせる。
「えらいね」 は最強にして最悪の言葉だ。
その言葉さえあればどんな困難も乗り越えられる気がするのに、思ったように病気が良くならないと偉くない、努力が足りていないと感じる。
昨日まで一緒に笑っていた子のベッドが
、何事もなかったかのように綺麗に片付けられていた時の胸のざわめきとあっけなさは、心にそっくりそのまま穴を開ける。
無情にもそこで“死” を知るのだ。
運命を恨むようになる。
「あの子の分まで生きて」 の破壊力はすごい。
まだ成長しきっていない身体で、精一杯気を使い、精一杯我慢し、精一杯闘い、精一杯向き合い、今を生きているのに、その肩に他人の人生の代わりというあまりに重すぎる荷を乗せられるのだ。
みんなが目覚ましと格闘しながらお布団で二度寝をしたがる時、私たちの最初の検査と点滴が始まる。
みんながお母さんの作った美味しいごはんを食べる時、私たちは色が薄く栄養価だけが最重要視された味気ない食事を摂る。
みんなが学校へ行く時にはなるべく安静にしろと言われ、甘いおやつはない。
みんなが温かいお風呂に入っている時、私たちはタオルで身体を拭くことしかできず、みんなが絵本を読んでもらいながら寝る頃に面会は終わる。
みんなが眠りに就く頃、私たちはなんにもなかった今日を振り返る。
明るいところが嫌いな訳じゃない。
世界に手を伸ばしてみたい。
ただ、みんなのいるところがガラス1枚であまりに遠すぎて、なにを想像したらいいのか、なにを希望にすればいいのか、どうやって夢を見るのか、その方法を知らないまま過ごす。
そして、“死” という悪魔に抱きつかれたような恐怖の中目をつぶる。
明日はあの子だろうか、それとも自分だろうか…と。
淋しさ、悔しさ、無力感、虚無感という、負の感情の中で笑って生きる。
そうさせてしまう世界なのだ。
無理矢理笑わせて悲しみを否定したり、いい子で頑張っていればなんとかなるなんてその場しのぎの励ましはしないでほしい。
どうか、言ってほしい。
「よく頑張ったね。泣いてもいいよ。」 と。