「これ、貸してやる。そしたら、水の中で目開けれるし、さっきまでよりもちょっと泳ぎやすくなるだろ」
佐野くんはそう言うと、あたしの頭にゴーグルを被せ直した。
「きつくない?」
水泳キャップの上でキュッと固定されたゴーグルの位置を調整しながら、佐野くんがあたしの顔を覗き込む。
近づく距離に戸惑いながら頷くと、彼がほんの少し歯を見せてにっと笑った。
その笑顔が、太陽の光の下でまぶしく輝いて、大きな手で強く掴まれたんじゃないかと思うくらい、心臓がキュッと鳴る。
「じゃあ俺は隣のコースで練習してるから、何かあったら呼べよ」
そんなあたしの動揺なんてちっとも知らない佐野くんは爽やかな笑顔でそう言うと、コースを仕切っているロープの下を潜り抜けて隣のコースに戻って行った。
そして、綺麗なフォームで隣のコースを泳ぎ始める。
佐野くんの綺麗な泳ぎをしばらく眺めたあと、あたしも自分の練習を始めた。
少しでもまともに水の中を浮いていられるようになっただけで、気分がよかった。
まだ僅かに不安は残っているけれど、佐野くんの言葉を思い出して落ち着けば、少しはなんとかなりそうだ。
ほんの少し浮けるようになっただけでこれだけ気持ちがいいんだから、自在に泳ぐ佐野くんは海の魚にでもなったみたいに、もっとずっと気持ちいいんだろうな。
そう思ったら、もう少しだけ彼に追いつきたくなった。
もちろん、到底足下にも及ばないのだけど。でも、少しだけ。
そのあと、あたしは必死で練習を続けた。
そうして、隣のコースを泳ぐ佐野くんには一度も声をかけなかった。



