「あっ、まずい。悪い理人、今日の待ち合わせはこっちじゃなくて新館の方のロビーだったみたいだ。急ごう」

「………まったくあんたはなんでそういう重要なことを間違えるんだ。そんないい加減でよく一企業の常務なんて務まるな」


待ち合わせ時刻にはまだ時間があるが、うっかり者の兄に一言言わずにおられなかった。

新しい企画をいくつも起ち上げ、タカミフーズでは改革派の急先鋒として保守派の幹部たちから煙たがられている透馬だが、決して頭は悪くないはずなのにどこか抜けているところがある。

本人は「こういう親しみやすさが部下を味方に付ける秘訣だ」などと言うが、欠点を美点と言いきれる図太さが兄の最大の武器なのだろうと理人は思っていた。


「おや心配してくれるのか?だったらおまえもタカミフーズに戻って来い。理人にだったら今俺が座っているの常務の席を譲ってやるぞ」

「それで自分はもっと上等な専務の席に座り変えて俺をコキ使う気か?ご冗談」

「相変わらず冷たい弟だ。でもおまえも『飲食業界の再建屋』と持て囃されていても、所詮は明日はどうなるのかも分からない小さな個人事務所だろ?似たような仕事なら経営企画室でも出来るだろうし、今からでも大手企業の役員の椅子に座っておいた方が将来安泰だぞ」

「断る。俺を役員連中から飛ばされてくる矢を避けるための盾に使おうとする魂胆が見え見えだからな」

「なんだ、見破られてたか。俺みたいに若くしてそれなりの地位も財産も容姿も持っていると年寄りに妬まれることが多くてね、一人で矢面に立たされ続けるのも堪えるんだよ。だから孤独に闘う企業戦士には家庭という癒しの場が不可欠になるんだ、うん、早く帰って理穂子と我が子たちに会いたくなってきた。結婚はいいもんだぞ、理人」

「兄貴プレゼン下手だろ。話の持って行き方が強引で無理がある」

「手厳しいね。こうやってプライベートでまで弟にダメ出しされて傷つくこともあるけどな、そういうときあちこち歩き回って探さなくても、家に帰るだけで癒してくれる家族がいるってのは本当幸せなことだぞ」


軽口の応酬は透馬のしみじみと実感のこもった呟きで締め括られた。


社長の父と副社長である叔父とが社内で対立して、その間で緩衝材の役を引き受けている兄が苦労していると義姉から聞いたことがあった。会うたびにくたびれていく兄を見るといたたまれない気持ちにもなるが、一度出て行った場所に舞い戻れる厚顔さは理人にはない。

それに手放すことなど考えられないくらいに、今の仕事と仲間に誇りがある。

父には大学まで出してもらい、何の苦労もなくタカミフーズに就職させてもらい、生まれてからずっと不自由のない生活をさせてもらった。すべては父のお陰であり、自分自身は何も努力も苦労もせずに得たものだ。

だからこそ子供の頃からどんな成績を収めても、どんな裕福な暮らしをしていても、自分が何かを得たという実感を得られず、ずっと満たされない気持ちを抱えていた。

そんな理人にとって、コンサルティング事務所だけは自分の力で手に入れられたものだと思えていた。


-----そう、だから結婚相手も人から寄越されていつのまにか自分の手の中に納まっていたのではなく、自分が欲しいと望んで口説き落して勝ち得た相手でなければ意味がない。